瀬戸内海の中央部に位置する呉市豊町大長はミカン栽培で全国的に有名なところ。 大長村の江戸時代は広島藩領で、行政的には港町として発展した御手洗も含む。 大長村の人数の推移をみると、宝永5年(1708)に638人。宝暦5年(1755)に1,056人。明和5年(1768)に1573人(御手洗543人・大長と沖友で1,030人)と増加し、享和元年(1801)には2,982人(御手洗1,570人・大長と沖友で1,412人)と御手洗の増加が著しい。文政2年(1819)には3,418人。嘉永6年(1853)には4,047人となっている。 御手洗は北前船の寄港する港町として発展し、廻船業者も多くいたが、大長はモモの栽培が盛んな土地で、小船による小規模な漁業が行われていた程度であった。 そして明治中期頃より、モモ栽培がもっと盛んになったが、ミカン栽培の急激な発展のためモモ栽培は衰えた。この地のミカン栽培の特徴に「渡り作り」がある。大長の土地だけではミカン栽培に足らず、周辺の島々や本州・四国まで自家用農船を使ってミカン栽培の耕作に出向くものである。明治末頃には隣の島の大崎上島木江地区の山林の半分は大長のミカン農家によって買い占められたとも云われた。 町を歩くと多くの小船が二つの入り江に係留されているが漁船ではない。近くの島へミカン栽培に出かける農船だが、前回10年ほど前に御手洗の取材したときにも訪ねているが、その時よりも大幅に船の数が少なくなっている。多分各島に橋が架かり、軽自動車で行けるようになったからだと思う。 集落内を歩くと、漁村集落の路地の様な細い道であるが、建物は明らかに異なり、伝統的な形式の重厚な家屋も混じる。この辺りが集落内の商業の中心地だったと思われるところも雑貨屋さんらしい家が一軒営業していたのみであった。お婆さんがあそこが旅館で、こちらが風呂屋、ここが時計屋さん等と説明してくれるが、それらしい建物のみで当然営業はされていなかった。 集落内の建物は相対的に新しく大正から昭和戦後にかけての建物が大部分と思った。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 |
豊町大長の町並 |
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