呉市豊浜町豊島は瀬戸内海に浮かび、かては海の孤島であったが、今は本土と橋で繋がり、自動車で訪ねることが出来る。 元和5年(1619)の安芸国知行帳には記載がなく、寛永15年(1638)の地詰では村高303.79石であった。畝数39町8反余り。文政2年(1819)当時は総畝数42町4反余り・高314石余りとある。こんな平地のない孤島で42町もの田畑がと思うが、島の西側には耕作地が有ったのだろう。 今の住居表示は全て豊島であるが、集落は島の東側の北から山崎・小野浦・内浦地区と続く。江戸時代は広島藩蔵入り地で終始した。文政2年(1819)の家数241・人数1,056とある。農業の余業は山稼ぎ・船稼ぎ・漁稼ぎ・木綿織・日雇い・賃仕事などが行われていた。 産物としては、晩稲・麦・大豆・小豆などで、平地が極めて少ないので収量も少なかったのだろう。漁法は小船を使った一本釣り漁法であった。 今回訪ねた所は豊島の小野浦集落で集落内を歩くと、漁村集落そのものであった。豊島でもその他の島と同様に柑橘類が多く栽培されている。調べると小野浦集落は漁業が中心で他の集落はミカンなどの柑橘類栽培が主になっているようだ。 小野浦集落は比較的活気が有るように感じたが、遠く長崎・鹿児島まで進出して、延縄漁業・一本釣り漁法で、また養殖漁業でも成果をあげ、県内屈指の漁業経営体を持つまでに発達した集落であった。 町並みを構成している家屋は比較的新しく、古いものでも明治時代と思われ、殆どのものは昭和の建物と思われるが、活気ある漁村であり、建て替えられた新築の建物も多くみられた。集落内は軽自動車も通れないような迷路が縦横に通っている。供用の道だろうと歩いていると一軒の家に入ってしまったりする。そしてその家の方と出会うとここ通っていいよと、家の勝手口前を通してもらい別道に出る。 初めて訪ねた他所者には全く地理が理解できない集落であった。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
豊浜町豊島の町並 |
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