呉市両城2丁目の町並み 
両城2丁目
地図


両城2丁目の急階段の町並
 呉市両城は古い町並みではないが、町並みの形状が急斜面に階段状に展開した特殊な形態を持つ町並みなので興味を持って訪ねた。
明治維新後の富国強兵策は、それまで小さな市場として呉町のほか、農漁業で生計を立てていた呉一帯を、一躍軍港と軍需生産の中心地とした。
明治19年に水深が深く、水面も広い立地条件のよい呉が軍港に決定した。以来、呉鎮守府が置かれた一方、造船部・砲兵部の諸施設が建設され、明治36年にはそれらが発展して呉海軍工廠となり、呉はまさに水兵と職工の町となって行った。
以来呉は軍港として第1次・第2次世界大戦を通じて重要性を強めた。戦艦「大和」も呉海軍工廠で造られている。
人口の推移をみると、明治38年では75,714人であったのが、大正9年には149,733人と倍増。そして大正12年の海軍工廠が設置され、軍事色は一段と濃くなって活況を呈した。一時軍事色の衰退も見られたが、第2次大戦中には呉市の人口は40万人を越えたと云われる。平地部は軍の施設に充てられたため、新たに移住してきた軍関係者や工廠の職工等の住む住宅は、周囲の急傾斜地に建てられた。中でも両城地区には、士官がすむモダンな和洋折衷の家が多かったという。
急傾斜の45度にもなる山の斜面に、10m程もある石垣を積み上げて雛壇状にした宅地は見るだけでも恐ろしい感じだ。200階段・100階段などと名前が付けられている。斜面上には階段で上れるが、横の等高線には道が無い。その階段の両側にある民家には今でも人が住んでおられる。出てこられた若い夫婦と小さな子どもずれの方に毎日大変ですねと話しかけると、頷いて笑っておられた。
このような階段の急傾斜地では建て替えが難しいことも在って空家が目立ってきた。一方JR呉駅近くの大和ミュージアムには年間90万人も観光客が訪れている。そこで今、「街づくりNPO法人」設立の準備がすすむ。この階段の町の空家を改装して宿泊施設にしようという計画だ。「戦艦大和を造った人たちが暮らしていた階段住宅に、戦艦大和を見に来た人に泊って頂きたい」との思いとNPO法人設立準備室の方が語っている。(2010.01.28朝日新聞)
町並み指数 30
参考文献     
  広島県の地名  平凡社  下中邦彦  1982年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年  

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並

両城2丁目の急階段の町並
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