音戸の瀬戸は平清盛が開削したとの言い伝えがある流れの早い海峡である。でもその昔は満潮時以外は歩いて渡れたという。そこえ昭和36年に音戸大橋が架橋され倉橋島と本土とが繋がり、大きな経済効果をもたらしたのである。 旧音戸町は平成17年3月に呉市と合併して呉市になったが江戸期には、倉橋島の北部の東半分が瀬戸島村、西半分が渡子島村であって、両村とも広島藩の蔵入地であった。 瀬戸島村は瀬戸町と隠渡・波多見・畑・有清・先奥・藤脇の6ヶ村からなり、音戸の瀬戸に面する瀬戸町は安芸地乗航路の発達に伴って形成された港町で、江戸末期には200戸ほどの人家があると、享和2年(1802)菱屋平七の「筑紫紀行」に記載されている。安政4年(1857)には「木綿受引方」が設けられるなど安芸郡南部の政治・経済・交通の要地として繁栄していた。 瀬戸島村は「芸備通志」(文政12年(1829)完成)によると家数988・人数4,400、船263艘であり、商工業・海運の発達が顕著であったが、漁業が盛んであり、内海の寄港地として栄えていた。産物は倉橋島同様木綿や海産物などである。 渡子島村は田原・早瀬・渡子の3浦に分かれ、「芸備通志」(文政12年(1829)完成)によると家数260・人数1,499・、牛117、船30艘とあり、牛の普及率が高く農業生産が顕著であったようだ。 明治39年に瀬戸島村が音戸町なり、昭和7年渡子島村が音戸町に併合され音戸町となった。 明治32年に要塞地帯法により呉要塞地帯に含められ、漁業は大きな打撃を受けることとなる。 音戸町は昭和期に入っても軍事色が年々濃厚となるが、呉市に隣接するところから、大正期に1万5千人代であった人口が年々増加し、昭和5年には1万6千人代、昭和15年には17,870人となった。 漁業も昭和20年代までは盛んであったで、鰯網も多かった。その名残が鰯浜に地名になって残っている。しかし昭和30年代後半からは漁業の中心はカキ養殖に移って行った。 今 古い町並は音戸大橋ラセン部分の渡し船発着場付近から島東側の南に細長く続いている。北から引地・鰯浜・北隠渡・南隠渡と続く。海岸沿いには立派な国道487号線が走っているが、古い道はその一本内側に路地風の道幅3mそこそこの道が通っていて、その道に沿って古い町並が展開する。 造り酒屋も呉服屋も元呉銀行本店の建物も存在する。中には表札の肩書きに漁網商と揚げた伝統的な商家の建物もあった。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
北隠渡の町並 |
北隠渡の町並 |
北隠渡の町並 |
北隠渡の町並 |
北隠渡の町並 |
南隠渡の町並 |
鰯浜の町並 |
鰯浜の町並 |
鰯浜の町並 |
鰯浜の町並 |