旧倉橋町は大字がなく全て番地のみであったが、今回の呉市との合併で倉橋町尾立となった。合併前は番地のみだったので、通称、本浦・尾立・室尾・海越・鹿老渡・須川・重生・‥‥などの10浦で呼ばれていた。 江戸期を通じて広島藩蔵入地。人数は元禄16年(1703)2,936。明和2年(1765)4,007。文政8年(1825)6,060と急増している。それは大工・鍛冶・大鋸などの造船関係の職人が増えたためである。 倉橋の造船は日本書紀にも宝亀9年(778)までに計7回安芸国で海外渡航用の大船が造られた記載があり、倉橋島をその造船地と見る説が有る。しかし本格的な造船業の発展を見るのは元禄〜宝永期(1688〜1711)といわれる。その後一時低迷期を経て、文化〜文政期(1804〜30)に隆盛を極め、「倉橋千軒」と云われた。造船所は主に本浦にあった。天保期(1830〜44)以降海運業の不振に影響され衰退する。 文久3年(1863)には藩営として建て直しが図られたが結局は消滅した。 第一次大戦を契機として輸送船の大型化が進み、機帆船の登場は木造船業に大きな変化をもたらした。大正末期から昭和初期にかけて倉橋においても機帆船の建造が本格化し、最後の隆盛期を迎えた。 木造船業に決定的な打撃を与えたのは、昭和38年の「内航海運業法」と「船舶安全法」の一部改正である。そして倉橋の造船業は小型の漁船建造に転換せざるを得なくなった。 以上の記述は呉市倉橋町室尾と同じです 今 尾立の集落を歩くと、商店は僅かで、店舗の構えでも営業はしていなかった。室尾と比べると農業集落であることが判る。人数は相当数のようだが、買物は本浦か室尾まで行くのだろう。 集落を歩いている時に、出会った人に皆さん何で生活されているのかを聞くと、百姓と云っておられるので、何処でですかと聞くと、軽自動車で他所に行ってとの答えが返ってきた。多分稲作・畑作・柑橘類の栽培をされているのだろうと思う。前の浜は漁港にはなってないので、漁業従事者は少ないのだろう。海岸沿いの集落特有の板壁の集落であった。そんな中にもかって酒を造っていた酒蔵があり、小学校もあった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
尾立の町並 |
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