下松市末武上は山口県南東部、末武川と平田川に挟まれた平野の北部に位置する。 末武村は萩藩領、元和3年〜7年(1617〜21)は徳山藩領、都濃宰判に属す。村高は慶長15年(1610)検地帳では末武村・生野屋村合わせて5,959石余、元和7年(1621)には末武村単独で4,895石余。「元禄郷帳」の朱印高は生野屋村を含めて4,082石余。元文5年(1740)の家数812・人数1,695とある。 さて、末武上村は「地下上申」の寛保元年(1741)には、末武上村・末武下村の2村に分村して記されており、この頃に成立したものと思われる。萩藩領、都濃宰判に属す。 村高は「注進案」「旧高旧領」ともに2,631石余、「注進案」によると家数333・人数1,348とある。 山陽道は久保市・花岡市と山道を通り、下松は主要往還から外れていたが海岸沿いで、瀬戸内の港として発展していた。 この地域の中心地は、山陽道沿いの久保市・花岡市と港としての下松であった。末武上村にある花岡八幡宮の門前町の花岡市は末武上村の中心で、萩藩の都濃郡各村を統治する代官所(勘場)があり、御茶屋(本陣)が置かれ、高札場もあった。 下松も防長2国に減封された毛利氏は、居城を萩と定めたが、毛利水軍の本拠地を一時この下松に置いていた。 「郡中大略」では末武上村を上側組・下側組・広石組・高橋組に分けてていて、家数341軒と記している。 今、古い町並は旧山陽道に沿って伝統的な様式の民家が点在する程度であるが、古くからの街道筋の町並と思える光景が展開している。平入り・妻入りが混じる町並で、白漆喰塗り込めの虫籠窓も健在な町並であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和54年 |
末武上の町並 |
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