川本町川本は島根県中央部、江川の中下流域、右岸から三谷川が合流する所の左岸(東岸)に位置する。 関ヶ原の戦い後は幕府の直轄領になり、大森代官所支配、銀山御領大家組に属した。 江川の右岸が幕府領で、左岸は浜田藩領であるが、左岸の川本村だけが幕府領であったのは、おそらく交通の要所だからだと思われる。 川本村は江川舟運及び陸上交通の要地として中世から町場が形成されていたようで、江戸期には上市・下市」・中市の町名が見られる。 江戸期の産業として砂鉄採取とたたら製鉄があり、たたら数も多かった。中でも「土居原たたら」は江川のほとりにあって、一か所に固定した工場をもち長い期間継続したが、他のたたらは木炭を求めて山間に工場を持ち、木が無くなれば、他の場所へと移動を繰り返した。 その土居原たたらの繁栄は、製鉄の原料の小鉄、燃料の薪材・木炭などが江川およびその支流の舟運を利用して川本に集積された結果で、また、製品の鉄は同じく舟運で江津などに下し、帰り荷で米その他を持ち帰ったため、川本村は湊町・在郷町として発展し、江川筋最大の拠点となっていた。 「土居原たたら」には、天明5年(1785)の記録では、430人もの人々が働いていた。うちたたら内召使者98・山方炭焼80・砂鉄方85・炭駄賃30・木伐50・砂鉄駄賃47・舟方40その他多くの駄賃・日雇人がいた。 明治5年郡役所が川本村に設置され、以来邑智郡の中心となり、県の出先機関・郡諸団体の事務所・各官公庁が設けられ、内陸部の中核としての役割をになってきた。 今、古い町並みは役場西側の南北の通りに展開している。特に北寄りに古い様式の家屋が連続して並んでいるが、建築年代は比較的新しく、大正期から昭和の戦後までの建物が多いように思う。 平入り・2階建て・切り妻造りの家屋がびっしりと並んでいた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
川本の町並 |
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