旧山陽道の神辺宿は高屋宿と今津宿の間の宿として栄えた。JR神辺駅の東ある小高い山の頂上に神辺城があった。そこに南北朝期から備後の守護所が置かれていて、神辺城下は江戸初期に福山城ができるまでは、備後の政治・経済の中心地であった。 天正12年(1584)から神辺城は毛利氏の支配するところとなり、同19年(1591)頃は毛利輝元は元就の子元康を神辺城主として入城させた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長へ移封すると、神辺城には福島正則の家老福島正澄が3万石の領主として入ってきた。元和5年(1619)水野勝成が備後10万石の領主として入国すると、直ちに福山城の築城にとりかかり、城下町は神辺から福山へと移った。 神辺宿の川南村・川北村ともに江戸時代の初めは福山藩領であったが、元禄11年(1698)幕府領になり、同13年から再び福山藩領になったまま明治を向かえる。 神辺は城下町でなくなったが、山陽道の間の宿として栄えた。宿駅業務は川北村と川南村で行われたので両村を含めて神辺宿といった。宿の中心は本陣が置かれた川北村の七日市と三日市であった。 本陣は三日市の尾道屋菅波家(西本陣)とその分家筋の七日市の本荘屋菅波家(東本陣)が勤めた。今、西本陣の菅波家が残っていて県の重要文化財に指定されている。主屋は延享5年(1748)に建築されたもので、上段の間など当時の面影を残している。東本陣は明治期に解体されしまった。 山陽道で本格的な本陣の建物が残っているのは矢掛宿が有名であるが、広島県では神辺宿だけである。本陣の建物と共に残っているのは、江戸末期の儒学者菅茶山が開いた廉塾(国特別史跡)がある。 「備後郡村誌」によると、宝永8年(1711)の家数は川南村で194軒・川北村で104軒、人数は川南村1289人・川北村842人 となっている。文化6年(1809)頃の家数は川南村で313軒・川北村で236軒、人数は川南村1298人・川北村1077人であった。 町並みは漆喰塗り込めの重厚な商家の建物が点在し、往時の宿場の景観を彷彿させている。一般的な伝統的商家の建物は、切り妻造り中二階建て、漆喰塗り込めの虫籠窓、ナマコ壁も多く、平入りで格子窓、出格子も備わっていて、袖壁や煙だしもある家屋もあった。 中国地方はかっては本瓦葺きが殆どであったが、今では殆ど桟瓦葺きになっていたが、本陣の建物の多くは本瓦葺であった。 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 平成11年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 |
川北の本陣前の民家 |
川北の本陣前の町並み |
川北の造り酒屋 |
神辺本陣 |
神辺本陣の建物 |
川北の廉塾前の町並み |