上関町上関の町並 
長島
地図


上関の町並み
  古くから海上交通の要衝上関は下関(赤間関)・中関(防府市)と共に防長三関の一つとして発展した。
文安2年(1445)に既に、上関の船が兵庫の港に米400石を積んで入港している(兵庫北関入船納帳)。中世には三島水軍村上衆の根拠地となっていて、村上氏はここに海関を設けて帆別銭を徴収していた。
江戸時代は萩藩領で、天保13年の「注進案」に拠れば、この地は上関村といい上関・上関浦・戸津・白井田・四代・蒲井からなり、家数・人数は上関171・785、上関浦272・1,141、戸津25・116、白井田148・774、四代138・787、蒲井85・451であった。
上関浦は天然の良港で、交易が盛んに行われ発展し、上関浦の商人は122軒にのぼり、商人・漁人・船持ちなどが上関浦に集中していた。店持ちの商人が多く、問屋・仲買・荒物店・酒屋・醤油屋・小売屋・茶店などを営み、多くの廻船も所有していた。北前船も寄港したが、後背地の産業を持たなかったため、商業地として大きく発展しなかった。
上関浦は瀬戸内海航路の要所で、緒廻船の入港が多く、宝永4年(1707)、萩藩は四代にあった御番所をこの地に移し、港の警備・口銭の徴収を行った。文化10年(1813)には御番所に隣接して撫育方の越荷会所が設置された。
上関浦の高台には御茶屋が設置され、朝鮮通信使や参勤交代の大名の宿泊に当たらせが、建物は明治3年に解体されてしまった。江戸期、上関に寄港した朝鮮通信使の正使や副使などは御茶屋に泊まり、随員は寺や民家に分宿した。
オランダ商館付医官のケンペルは、江戸から長崎への帰途の元禄5年(1692)、上関海峡を通過し、港に大小100艘以上の船が停泊していたと記している。
今、古い町並は埋め立てられた海岸道路と山の間の旧街道に沿って展開する。町並は切り妻又は入り母屋造り、妻入りの家屋が多く、伝統的な家屋は白漆喰塗り込めである。妻入りが多いのは柳井の町並にも共通するが、こちらは漁港・漁村集落であり、路地で繋がった細い道筋に板張りの家屋で構成された町並みも混在する。言い換えれば、柳井の白壁の町並と、古い漁村集落風景が混じりあった町並と思えばいいようだ。
そんな中に、平入り、入り母屋造り2階建てで、2階部分の虫籠窓が菱形になり、与力格子みたいな太い横木が入っている民家があった。この大胆な虫籠窓の意匠は柳井の豪商などの意匠を真似たものだろうと思う。
この町の散策に当って、当地の「かみのせき郷土史学習にんじゃ隊」に適切なる説明と案内を願ったことをこの場を借りてお礼を申し上げます。
町並指数  50
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店角川  日本地名大辞典編纂委員会  1988年
  歴史の町並み再発見  葦書房  読売新聞西部本部  1993年
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年

上関の町並み

上関の町並み

上関の町並み

上関の町並み

上関の民家

上関の町並み
古い町並へ戻る