海田町は山陽道の宿駅で、本陣であるお茶屋や脇本陣などがあったところである。今は三方を広島市に囲まれて、広島市の一部のような錯覚に陥る地域である。 この地は海陸交通の接点にあたり、古くから戦場となることが多かった。建武5年(1338)の南朝方と北朝方との戦い、大内氏と尼子氏の戦い、毛利氏と陶氏の戦いなど幾多の戦いの場となっている。 関ヶ原の戦い後に、広島に入った福島正則の検地により、日浦山麓の山陽道に面した一角が海田市村とされ、それ以外は奥海田村となった。海田市村は山陽道の宿駅であり、在郷町でもあり安芸郡の政治・経済の中核的な位置を占めていた。江戸時代を通じて広島藩の蔵入り地。 海田市村ははじめ小さな村として出発したが、江戸初期からの開拓が進み大きな村になっていった。まず、寛永14年(1637)から始まった前新開・向新開。寛文元年(1661)には新新開で81町余も開作された。天保9年(1838)には更に明神新開が完成している。 これらの新開地域では水はけが悪いため稲作に適さず、高い畝を作って綿を作った。この綿作を背景に綿繰や木綿織延が農間余業として展開した。街道沿いには商店が並び穀物・茶・塩・味噌・醤油・酒・木綿・油など各種商品が販売されていた。 町の広さは、東西6町27間・南北15町35間。正徳2年(1712)差出帳では家数295・人数1,676。文化11年(1814)に家数563・人数2,708。明治21年の家数759・人数3,583であって、幕府公用の荷物の輸送の役は長く千葉家が勤めていた。 享和2年(1802)尾張商人 菱屋平七はその「筑紫紀行」に「浜手を廻れば海田市宿 人家八百軒計 大型瓦葺にて宿屋茶屋商家多し」と記している。 今 古い町並は旧山陽道に沿って東から成本・上市・中店・稲荷町・船越などに残っている。上市辺りが宿場の中心だったようで、御茶屋跡との表示がされていて、稲荷町には脇本陣の千葉家が昔の姿のまま健在であった。古い伝統的な家屋が連続して残ってはいないが、山裾に沿って自然に湾曲した旧街道には、格子や虫籠窓を備えた古い様式の家屋が点在し、宿場町当時を偲ぶことが出来る。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
上市の町並 |
稲荷町の町並 |
稲荷町の町並 |
稲荷町の町並 |
稲荷町の町並 |
稲荷町の町並 |
稲荷町の町並 |
稲荷町の町並 |
中店の町並 |
上市の町並 |