可部は広島城下より太田川を約15km北東へさかのぼった位置にあり、広島城下と山陰地方を結ぶ石見浜田往還と雲石往還が可部町北の下町屋村で交わり、可部街道となって城下に至る交通の要衝であった。 町の成立は戦国時代の領国経済の発展に伴い、物資流通の要衝となったことによると考えられている。 江戸時代は広島藩領で蔵入地であった。雲石往還に沿って南北に延びる町並は、享保年間(1716〜36)の頃南北7町50間、小路八筋、家数197軒であった。郡中国郡志によれば、文政初年(1818)には本町通筋に五町(渡り町・寺町・中ノ町・胡町・上ノ町)、九小路があり、東西50間、南北8町16間、家数243軒・人数932人であった。 江戸時代の可部町は一大物資の集散地であった。広島城下からの蔵物の輸送中継や山間部や山陰地方の鉄・鋼あるいは瀬戸内・上方地方の塩・干鰯・塩鰯・肥料など特産物の輸送中継など、遠隔地間の流通機能を有し、大商人の南原屋をはじめ多くの商家が栄えた。 二日・七日の六斎市では莚・煙草・布・油蝋・山繭油をはじめ周辺農村からの産物が売買され、太田川の川船によって瀬戸内から塩や海産物が取引された。 当地の産業に鋳物工業がある。鋳物生産は江戸初期にはじまったと思われている。「郡中国郡志」によれば、文政初年(1818)には鋳物師が三人いて、鍋・釜・農具などを製造していた。 この可部で風呂釜が作られはじめたのは、明治20年頃のことで、大正時代に入り、各家庭で風呂場を作るようになって、爆発的に販売が延びた。 今、古い町並は旧雲石街道沿いに「折目」と呼ばれる枡型辺りを中心に南と北側に展開する。この「折目」も防衛上の観点から遠目遮断のために設けられたものだろう。造り酒屋さんや醤油醸造所の商家の建物が連なり、江戸から明治時代の景観を醸しだしている。でもこの道は近くを走る国道の横道として利用されているようで、ゆっくりと町並も見られないほど、ひっきりなしに車が通り、写真を撮るのも苦労する。 この町並を歩くと造り酒屋さんが多いのに驚く。私は江戸時代から明治にかけて裕福な商家が多く、町に活気があり繁栄していた町並みの基準として、造り酒屋さんが今何軒残っているかを基準にすることが多い。その意味ではこの町は、江戸時代から繁栄していて、今にその繁栄が続いていると云えるだろう。 切り妻造り平入りで、中2階建て虫籠窓を備えた家屋が古い町並を構成していた。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
可部二丁目の町並 |
可部二丁目の町並 |
可部三丁目の町並 |
可部三丁目の町並 |
可部三丁目の町並 |
可部三丁目の町並 |
可部三丁目の町並 |
可部三丁目の町並 |