神石高原町油木は広島県北東部で、南北に山陰と山陽を結ぶ大動脈の一つ国道182号線(東城路)に沿い、標高約500mの吉備高原上に位置する。 江戸期は元禄12年(1699)までは油木村といい福山藩領であったが、同年の備前検地によって西油木村と東油木村に分かれ共に幕府領となる。享保2年(1717)からは共に豊前中津藩領となり、そのまま明治を向かえる。 村高は「天保郷帳」「旧高旧領」ともに西油木村は832石、東油木村は888石。安永元年(1772)の村調べによると、西油木村は溜池15・井堤32・猟師鉄砲13・寺1・御巡見様御本陣1・氏宮3・小氏宮104。 東油木村は溜池12・井堤53・猟師鉄砲15・寺1・御巡見様御本陣2・氏宮3・小氏宮81とある。 家数人数は東油木村に記録が残り、享保2年(1717)家数289・人数1,173。天明3年(1783)家数242。寛政6年(1794)家数208・人数702と減少している。 町並みは旧東城路に沿って発展し、東西に分けられた分村もこの街道の西東の分けられたようで、交通の要衝として近隣の物資が集散し町並みが形成された。 また、古くから牛市も開かれていて、江戸初期から畜牛の飼育では領内で一番多く飼われていて、神石牛として知られていた。 明治8年に東西に分けられていた油木村が合併して油木村となり、神石郡の中心地となり、警察署や府中葉煙草専売所油木支所や神石郡役所などが開設された。 交通の要衝としての機能はそのまま現代にも引き継がれ、町並みの中に大きなバスの中継基地が設けられていた。 今、町並みを歩くと、旧東城路に沿って約1.5km程町並みが展開している。町並みには統一性がなく、赤瓦や黒瓦が入り混じり、また平入りや妻入りが混じっている。 その中に造り酒屋さんが大きな門を構えて居られた。連続した妻入り・切り妻造り・中2階建て・赤瓦の建物はこの造り酒屋さんの付属建物だった。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
油木の町並み |
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