出雲市多伎町口田儀は出雲市街から南西に約20km、田儀川の河口部の町である。 江戸時代は松江藩領。出雲国と石見国の境界、出雲国の海岸部西端にあたり、古代には関所が設けられていた。 万寿年間(1024〜28)田儀が口田儀・中田儀・奥田儀に分かれたが、後に中田儀を口田儀に合わせたという。 寛永5年(1628)の口田儀村御検地帳写しでは屋敷数56(うち役屋敷41)とある。 宝暦4年(1754)の神門郡南方万指出帳では、家数185・人数971・町棟数103・牛65・馬6・石積船4・渡海船4・伝渡船10・伝馬船3……と記す。 宗門人別帳の人数は、寛政3年(1791)860・同9年(1797)884・天保9年(1838)1,062・明治5年1,125である。「郡村誌」では家数276・人数1,103・牛71・馬4、500石〜200石積船2、200石未満荷船1、漁船36。 民業は農業147・薪炭28・漁業35・商業20・大工20・木挽5・桶工2・鍛冶2などなど。物産は米の他に木の実・生蝋・アワビ・サザエ・タコなどの海産物。 口田儀には桜井家の「たたら」が置かれていた。藩政期の当地の産業として、まず製鉄業があげられる。伯耆の日野川・出雲の神戸川・久村の大川で採取した砂鉄を田儀浦へ運び、田儀桜井家の「たたら」で「銑」とし、奥田儀の宮本の大鍛冶で小割鉄としていた。天保年間(1830〜44)の年間生産は銑約2万貫・和鉄約4千貫であった。この製鉄業には製炭・砂鉄採取・運送・海運・飯米などが付随し、従業者はおびただしい数に上がった。桜井家はこの鉄を利用して稲扱1,000刃を製造し、各地に販売していた。 また、製塩も行われていた。 今、口田儀の古い町並みは海岸を通る国道9号線より一本山側の旧山陰道に沿って展開している。農漁村として発展していた町であるが、街道筋のためかそれに宿場町としての様相が加わっているように感じる。間口の狭い漁業集落の家々、街道筋にある大型の旅籠屋風の家、商家の建物などが混在した赤褐色の屋根の家々が連なっていて、町並みの統一感は全く無かった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
多伎町口田儀の町並 |
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