斐伊川水運の拠点として発展した大津の町は、関ヶ原の戦い後、松江藩領となり、堀尾氏、京極氏、松平氏がこの地を支配した。 大津の町の成立した年は不明だが、天正元年(1573)の洪水で大被害を受けたと伝えられ、天正18年()の石塚家文書に「市場の下」「市場荒神」がみえる。 寛永13年(1636)に大津村は七面山の麓から、石塚村の一画に移った。これは若狭土手築造のためであったようで、石塚村の中に島状をなした大津町があった。 慶安2年(1649)の大津町御検地銭帳では屋敷36間27歩・引屋敷4間1畝18歩とある。元禄13年(1700)の町屋鋪御検地帳写によれば大津村市4畝21歩、屋敷数56。宝暦4年(1754)の神門郡北方万指出帳に東西3町40間・横4間、家数108・人数534・馬5・紺屋3・大工5・土窯屋1・綿打ち1・鍛冶屋3・桶屋2・油屋2・酒屋2と記されている。 「雲陽誌」には毎年4月から8月まで牛馬市が立っていたと記されている。「郡村誌」では東西4町・南北38間・戸数176・人数821・牛1・馬8・高瀬船2・人力車9。職業構成は農業49・商業106・工業20・雑1と記していて、農業と商業の兼業農家や農家相手の商人が多かった様子が判る。 町並みは伝統的な商家の建物が連続してあるという状態でないが、切り妻造りで中2階建ての 平入りと妻入りの建物が点在していた。 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
大津町の町並 |
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