岩国市の町並 
岩国一・二丁目
地図


旧柳井町・旧玖珂町の町並
 錦川にかかる錦帯橋は、日本三大奇橋の一つとして有名である。
岩国藩初代藩主吉川広家は横山山頂に城を、麓に居館を置き、錦川を堀としてその対岸に城下町を造ったが、戦略的には堅固だったが、戦乱の無い時代には、極めて不便であって、橋の建設は歴代藩主の悲願だった。
岩国の鎌倉時代は周防国で勢力を伸ばしていた大内氏の支配下となっていたが、のちには中国地方を制覇した毛利氏の支配下に置かれていた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、毛利氏は西軍に属したため、毛利輝元・秀就父子は、徳川家康によって、中国8ケ国の領地を没収され、防長への移封を余儀なくされた。
このとき同時に一族の吉川広家も、出雲国富田月山城14万石の城主から、岩国3万石(のち6万石)の領主に転封となった。
翌慶長6年(1601)から、広家は錦川を自然の要害として、横山の山上に城を築き、麓に居館を置き、藩の役所や上級武士の屋敷を配した。(城は元和元年(1615)の一国一城令により取り壊されてしまった)周囲を迂回する錦川を外堀とするとともにその対岸に城下町の町割りを行った。
玖珂町・柳井町・米屋町・塩町・材木町・魚町・豆腐町の錦見地区7町をつくり、その7町を取り巻く様に中・下級武士の屋敷を配した。
この錦見地区から下流2kmの今津は河口にあたり、当初 港として町割をされ、水軍も滞在した。岩国藩は耕地化に熱心で干拓がすすみ、稲作とともに綿作も盛んで商品作物として藩財政をうるおした。
今、町並を歩くと、歴史町名玖珂町などとの表示があり、町割りも当時のままである。道幅は約5mほどあり、切り妻造り平入り、中2階建て、格子の商家の建物が連なる。古い町並として江戸時代の面影を色濃く残すのは、旧材木町・魚町・玖珂町・柳井町等の民家である。ベンガラ格子、白漆喰塗り込めの虫籠窓を備えた商家の建物は時を越えて往時の城下町の息吹を感じさせる。
そんな中で玖珂町の国安家は嘉永3年(1850)の建築と云われ文化財として登録されている。魚町に屋根付きの看板を軒先の屋根に上げているのは、つけもの屋の「うまもん」。中2階建て、黒漆喰塗り込めで虫籠窓・格子を備えた江戸時代そのままの商家の建物であった。
錦川の川原の駐車場から、錦帯橋・吉香公園の一帯は有名な観光地で、年中多くの人々で賑わうが、錦帯橋を渡った城下町の錦見辺りは、地元の方が時々通るくらいの落ちついた町並みであった。
錦帯橋については、岩国藩3代目藩主吉川広嘉が延宝元年(1673)に橋柱のない橋を考え、築城技術と組木の技法を最大限に生かし、増水時でも流されない橋を完成させた。はじめの橋は8ヶ月で流失したが、直後に再建された2代目の橋は、昭和25年に流失するまで実に276年間も風雨に耐えたのである。
町並指数 50
参考文献
   山口県の歴史散歩  山川出版社  山口県歴史散歩編纂委員会  1993
   山陽・山陰小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1999
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988
   岩国の旅/岩国市

旧魚町の町並

旧魚町の町並

旧魚町の町並

旧玖珂町の町並 中央の建物が国安家

旧玖珂町の町並

香川家の長屋門
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