上関町祝島は瀬戸内海の最西端にある。穏やかな内海の様相とは大きく異なり、厳しい風波が襲う外海に面した港町の風情である。 早くから歴史に登場し、万葉の島と詠われているが、全島を焼き尽くす大火に2度も遭遇し、古事をひも解くことは未だにできていない。 江戸期には、岩見島(いわみしま)と云われ、萩藩領であった。天保13年(1842)の「風土註進案」によると家数269軒・人数1,550人で269軒のうち農業233軒・商人9軒・漁民13軒‥‥であった。近海は好漁場でありながら、漁業権は室積浦(光市)に占有されていて、九州出漁の鯨組みに40人、各地の酒造地の杜氏として200人もでかけていた。 明治に入り、明治22年の家数321軒・人数1,971人であり、島民は漁業従事者が最も多かったが、冬季になると男性は酒造杜氏として県内のほか九州・朝鮮まで出稼ぎした。大正8年には島内から杜氏として271人が出稼ぎしている。 明治期から昭和30年代にかけて漁業は盛んであったが、地内漁師専用漁場は小祝島周辺と祝島の最東端の鳥帽子鼻周辺のみで、その他は上関村全体の共有であった。 この島には、昭和51年に県無形民俗文化財に指定された神舞行事がある。4年に一度行われるもので、山口・大分両県の海上を御座船が往復し、100隻に及ぶ奉迎船が参加する入船・出船の神事は荘厳華麗である。 この祝島は急斜面に囲まれた丘陵地で、島の北東部の僅かな平坦部に集落が密集している。 道は細く迷路のように曲がりくねって上下し、人がすれ違うのがやっとという路地が多い。その両側の家々の塀や壁は全て石の練塀や石積みだから瀬戸内とはとても思えない異様な風景である。台風の進路にあたっている島であり、太平洋から豊後水道を北上する荒波の直撃で、東西南北何れからの風も風当たりが強く、屋根瓦も一般的には漆喰で塗り固めるが、ここではコンクリートやモルタルで固められ、その上を保護材の塗料で塗り固められている。それだけ塩気を含んだ風雨が強いのであろう。 石の練塀や石積みの壁は風雨のためだけでなく、これだけ密集して家屋が建っている集落だから、防火の点でも必要な存在のようだ。 この石の練塀の壁には、構造上の力を加えてないようで、あくまでも軒下に屋根まで石を積み上げたような構造である。用いられている石もこの土地から出たゴロタ石や海岸から拾ってきた石のようで、結構大きな石も積んであった。 沖縄の竹富島や愛媛県の西海町外泊、高松市女木島や男木島にも石積み集落があるが、瀬戸内海にありながら、これだけ頑強に石積みされた集落は類を見ない貴重な存在である。 先人から受け継いだ民俗遺産として、いつまでもコンクリートでやり直すことなく、このまま石積み集落として残って欲しいと思う。 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
祝島の町並み |
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