飯南町南部の旧赤来町は山陰・山陽の分水嶺をなす中国山地の背梁部、島根・広島両県の県境に位置し、赤名は山陽から赤名峠を越えた最初の町である。 古くから山陰・山陽交通の関門、中国山地の要衝として知られ、現代では広島と島根を結ぶ国道54号線の中間地点にある。 今回訪ねた赤名は、江戸時代には赤名町と云われ、慶長年間(1596〜1615)に下赤名村古市(赤名宿)が全焼したため現在地に移住してきたと伝える。 赤名町(赤名宿)の町の出雲街道の西側家並みはおおむね上赤名村、東側家並みは下赤名村に属していた。 赤名町は出雲街道の要衝であったので、中世には長門の大内氏・安芸の毛利氏・出雲の尼子氏による大規模な戦闘が行われている。また、赤名は出雲街道から銀山街道の分岐点としても、出雲・石見・備後・安芸国国境という要衝の地としても古くから重要な位置を占めていた。 赤名宿は国境の宿場町として、また地方商業の中心地として栄え、文久3年(1863)家数168・人数589で、町の2ヶ所に上番所・下番所が置かれていた。 明治政府による地誌「皇国地誌」(赤名村誌)によると、家数145・人数607とあり、職業は農業40・商業80・大工8・鍛冶2・日雇稼20とある。 明治に入ってからも宿場町・商業地として繁栄していた。 今、町並みを歩くと、赤褐色の瓦を載せた家並みが続き、宿場町だった雰囲気は残っているが、これだ!!という伝統的な様式の建築物が無い。いわゆる中2階建ての重厚な建物がなく、赤褐色の屋根の平屋か2階建ての家並みである。宿場町・商業町であったが、大店の豪商がいなかったのかもしれないが、それより大正8年の大火で、町の大半である191戸527棟を全焼しているので、その影響で古い伝統的な家屋が無いのだろう。 町が全焼したにも関わらず、早く復興したのは、この地における商業の中心地としての基盤があったからで、その後も繁栄を続けていたが、今は殆どお店らしいものは無く、街道に面して建つ家屋の、店であったであろう所が部屋になっていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
赤名の町並 |
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