防府市富海は山口県中央部の南で、大平山の南東麓に位置し、南は周防灘に面する。 江戸期のはじめは萩藩領、元和7年(1621)からは徳山藩領。 村高は慶長5年(1600)検地帳では875石余、同15年(1610)検地帳では1,430石余(屋敷数142・浦屋敷66)、寛永2年(1625)検地帳では2,079石余(屋敷数125・浦屋敷90)、元文5年(1740)に3,212石余、「天保郷帳」3,305石余、「旧高旧領」3,630石余。 富海村には山陽道が通り、宿場があって町場が形成されていたが漁村であった。寛保元年(1741)の記録では東町・中市・新町があり、町の長さは山陽道沿いに4町50間、家数107・人数741、酒屋1、高札場、御茶屋(本陣)・番所(継場)がある半宿であった。漁船44・いさば船6があり、春は鯛網、夏は引き網で鰺・鰤・鯖をとり、秋は鰯網が中心であった。安永年間(1772〜81)頃より富海の漁船が、旅客や貨物を瀬戸内海各地に運搬するようになり、飛船(富海船)と呼ばれ、主に大坂へと人や荷物を運んだ。 天保5年(1834)の記録では野島も含めての人数は3,844とある。 今、旧山陽道(現県道189号線)を歩くと、街道に沿って僅かだが伝統的な様式の家屋が見られる。 旧本陣の表示を掲げた民家も見られる。ここは半宿だったから本格的な本陣は無いだろうが、参勤交代大名の休憩所や長崎奉行・出島居留のオランダ人など比較的小規模な人数の宿泊に利用されていたようだ。宿場・漁村・港町であった名残は、街道筋は宿場町、街道を外れた海側には細い路地道に船蔵が残っていて、港町としても繁栄していた頃を彷彿とさせる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和54年 |
富海の町並 |
富海の町並 |
富海の町並 |
富海の旧本陣 |
富海の町並 |
富海の町並 |
富海の町並 |
富海の船蔵 |