防府市田島・浜方は山口県中央南部、周防灘に面して江戸時代に干拓(開作)された所である。 江戸時代は萩藩領、三田尻宰判に属していた。 江戸初期から干拓(開作)がはじまり、向島に向かってどんどんと開作されていった。 佐波川河口及び佐波平野の海岸線は、中国地方8ヶ国から防長2ヶ国に減封された毛利氏にとっては、干拓により領土を拡大する格好の地であった。寛永5年(1628)藩直営による最初の開作が孤島田島と本土を繋ぐ形で完成した。以後、佐波川以南で、三田尻御船倉以西の開作でも33を数え、田島はすっかり陸地となり、佐波川もその河口を次々に西南に延す開作が行われた。 これらの開作地の多くは田畑であったが、塩田も相当の領域を占めた。そのため三田尻浜には多くの塩問屋株が認可され、享和2年(1802)には大問屋と言われた6軒を含めた46軒があり、西浦浜にも13軒、他の地区にも若干の問屋があった。 これらの開作地支配は三田尻宰判であったが、明和5年(1768)に中関宰判が設置され、開作地の塩田地帯支配が分割された。 近世の防府は交通の要衝としても栄え、山陽道の宮市とともに、萩藩御船倉があったため、港は東北地方や北陸地方と大坂を結ぶ北前船の寄港地とされ大いに賑わった。 地域別の状況は、「地下上申」では三田尻村の畠方・塩浜分を含んで家数525・人数1,936。廻船が40艘(三田尻31・塩浜9)、上荷船18艘(三田尻2・塩浜16)、漁船12(三田尻のみ)。浜方村は三田尻村の項で、塩浜分として家数242・人数1,024、船数は上記の様に塩浜分に9艘、上荷船に16艘。田島村は家数593・人数2,193、廻船7、漁船12艘。 「注進案」での地域の状況は、三田尻町が独立し、家数512・人数1,827。村内には御茶屋・御船倉・川口番所・川口高札場・御船方勘場・地方勘場などがあった。浜方村は家数467・人数1,908。田島村は家数858・人数3,577と記す。 今、江戸期に開作された田畑や塩田は殆どが、一大臨海工業団地となり工場群や住宅地、ゴルフ場や運動グランドとなっている。その中で僅かに残る塩田だった頃の町並が残る地域を訪ねたもの。 また、下関・上関は名が知られているが、三田尻中関の文字に魅かれてやってきた町並。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和54年 |
浜方の町並 |
田島の町並 |
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田島の町並 |
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