広島市安芸区矢野は広島市の南西部の端で、海田町・熊野町・坂町に囲まれた飛地状の地域で、広島市の盲腸の様に僅かに繋がっている。矢野川と宮下川が中央をほぼ平行して北流している。矢野川に沿って黒瀬街道が南に延びる。 江戸時代は広島藩領蔵入地であった。黒瀬街道が通る矢野は矢野峠を経て後背地として津江村・郷原村を、そして呉との交流が盛んで、寛永年間(1624~43)にはもう町街を形成していた。 江戸後期の「国郡志下調書出帳」には商業・海運が発達し、町方も形成され、庄屋・組頭が置かれていて、家数313(村全体で605)とある。百姓564・漁家20・職人11・医師4・狩人3・他で、人数3,417、船75とあり、5割が耕作・5割が商売・漁猟などであった。 江戸末期には新地開発もすすみ、西崎新開・尾崎新開などが開かれ木綿が栽培された。 人数は元禄16年(1703)1,844、延享2年(1745)2,229、文化12年(1815)3,417、明治3年3,780であった。 又矢野は古くから矢野浦として発達した港津で、江戸時代には大井港と大浜港があった。 大井は中世以来の港で漁港・大浜港は商港として利用されていた。船数は享保5年(1720)には79艘あったが、漁業は周辺諸村に押されて、明治3年には41艘と大幅に減少している。 矢野の特産は髢(かもじ)である。 髢は髪を結うときに、地毛が足りない部分を補うための添え髪で義髪のこと。江戸時代の寛永(1624~43)頃から始まったというが、明治初年には髢師20軒・商人120人がいたという。全国市場の7割の独占的地位を占めるのは明治30年代以降で、当時は町民の8割がこれに関わっていたという。 漁業は近隣諸村から押されいたが、牡蠣養殖は盛んで、享保(1716~36)頃の篊場持主42人・文化12年(1815)には65人・明治3年には生産者48人・商人150人もいて販路は大坂を除く瀬戸内海全域に及んでいた。 古い町並みは、今のJR矢野駅の東にある尾崎神社の南側から東に伸びる道の両側と、その道が矢野川に突き当たり右の折れ矢野川に沿って矢野峠に向かう道筋に展開している。 この道が旧黒瀬街道である。切妻造り平入りの商家の建物が点在している。間口の広い重厚な商家建物もあり、袖壁や虫籠窓を備えた家屋もみられた。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
安芸区矢野西5丁目の町並 |
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安芸区矢野西5丁目の町並 |
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安芸区矢野西5丁目の町並 |
安芸区矢野西5丁目の町並 |
安芸区矢野西6丁目の町並 |
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