広瀬町の町並み 
広瀬
地図


広瀬町広瀬の町並
 この地の月山富田(がっさんとだ)城とその城下町は江戸期初期まで、出雲国守護職の所在地として、政治・経済・文化の中心地であった。
月山富田城は文治元年(1185)佐々木義清が出雲隠岐の守護となって入城してから、山名・尼子・毛利と月山富田城の争奪戦が繰り広げられた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後に、月山富田城に入ったのは堀尾吉晴で、富田城を更に整備した。
しかし、富田城が出雲国の東端に位置していること、火砲の発達で月山は攻めやすいこと、輸送の動脈であった富田川(飯梨川)も土砂の堆積で水運の利用が困難になったこと、侍屋敷を作るにも城下が手狭であったことなどの理由により、移城が決まり、慶長16年(1611)今の松江に移っていった。松江移城に伴い寺院や商工業者も移転・移住した。「思いがけない松江ができて、富田は野となれ山となる」と俚謡にうたわれる様に富田は衰退して行った。更に寛永12年(1635)、寛永15年(1638)と大洪水が富田を襲い、いよいよ富田城下町は衰退した。
そして広瀬藩成立の寛文6年(1666)秋の大洪水では堤防が決壊し、濁流は城下町を飲み込み、富田川は流路を変え、富田城下町は川底になってしまった。成立したばかりの広瀬藩は廃墟の中から町づくりをはじめなければならなくなった。
城下は川底になってしまったので、町は富田川の西方の広瀬村に新しく建設されたのが今の広瀬町です。
広瀬藩は寛文6年(1666)に、松江藩主松平直政の次男松平近栄が禄高三万石をもらって藩を創立したものだが、成立早々に大洪水に見舞われ、陣屋も新しくできた町に置かれた。
その後の町の様子は不明だが、延宝2年(1674)の糀室之覚に平田町など六町とともに広瀬町があげられているので、藩邸・侍屋敷などとともに町人町も順調に形成されていたようだ。
天保年間(1830〜44)に成った広瀬藩中の市街の図によれば、町方は南北に長く連なっていた。上流の南の方から新町・後町・上町・下町・中町・鍛治町・新市町・萱町などが描かれている。尚寛政2年(1790)に大火が発生し、藩邸をはじめ町内180軒が焼失している。
主要なものが松江に移ってしまい衰退していた町も奥出雲で鉄の生産が活発化すると、その玄関口として繁栄をはじめ、藩の中心地として商業も栄え宿場町的な性格をも持つようになった。
明治政府の「皇国地誌」によると戸数1,092(うち士族306・平民761)・人数4,316で職業構成は農業120、商業300、工業250となっていて、商工業を中心とした都市型の町であったことが判る。
しかし大正4年に上町から出火した大火で、町の殆どの415戸が焼失してしまった。藩庁や侍屋敷といった近世の遺構は跡形もなく消えうせてしまった。だから現在の町並はそれ以降の建物だが、歴史というのは恐ろしいもので、今町並を歩いてもこれが大正から昭和初期の町並とは思えない重厚な商家の建物が連なっている。
切り妻造りの平入り、中2階建てもしくは2階建ての建物。石州瓦の黒褐色の瓦がなお重厚さを増しているようだった。
町並み指数 50
参考文献     
  島根県の歴史散歩  山川出版社  島根県の歴史散歩編集委員会  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  島根県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年
  

広瀬の町並

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