平田市の町並み 
平田町・片原町・新町・灘町
地図


平田町の町並
 平田はかって出雲平野の東端に位置し、宍道湖岸の町で、舟運によって松江方面との水運拠点として栄えていた。江戸時代から明治の初期にかけて木綿の集散地として栄えた。
江戸時代の平田は慶長5年(1600から)堀尾氏、寛永11年(1634)から京極氏、同15年()から松平氏の支配を受け、松江藩領のまま明治を迎えた。
平田の南端を流れる斐伊川は江戸初期までは武志辺りから西に流れて日本海に注いでいたが、寛永16年(1639)の大洪水により、武志辺りから東に折れて宍道湖に注ぐようになった。
このため同川河口部は沖積がすすみ、漸次新田として開発されていった。このためかって湖岸であった平田町は内陸部となったが、平田船川によって湖と結ばれ、引き続き出雲国における流通拠点の一つとして賑わいを見せた。
中世以来平田には商家などが集中して町場を形成していたが、江戸時代になっても在郷町として発展していった。それは正保国絵図でみると宍道湖は当地付近で深く湾入しているが、その後斐伊川の沖積作用による湖岸の堆積が進み、天保国絵図では干拓により新田地帯として開発され、全く内陸となっていて、平田船川によって湖と繋がっていた。
平田船川を挟んで南に本町と灘町。北に宮の町・袋町・片原町・新町など割り当てられた。灘町に船着場があり、藩主が杵築大社(出雲大社)参詣の折などに使用した御茶屋は本町の東部にあったが、火災に遭ってからは木佐屋・儀満屋・小豆屋などの豪商が本陣宿を勤めるようになっていた。
常設人馬を置く駅でなかったが、人や物の往来は盛んで駄賃が決められていた。
寛政4年(1792)の万差出帳では家数456・人数1,703。天保14年(1843)には家数605・人数2,294。明治7年には家数806・人数3,133であった。
平田地方の綿昨は宝暦年間(1751〜64)にはかなり広く行われ、他国売りがされていた。雲州平田木綿は大坂市場で好評を得ていたようだ。寛政4年(1792)には11軒の紺屋があり、背後地の農村の木綿生産が盛んだったことを裏付けている。平田の木綿市は毎月3日と8日の六斎市で取引量は文政5年(1822)には22万反にも及んでいて、松江藩の木綿取引の約40パーセントを占めていた。
水運で栄えた商業の中心地平田の繁栄も、山陰本線の開通とともに終わりを告げ、商業の中心地は今市(現出雲市)に移ってしまった。
今でも妻入りの商家の建物が本町通りを中心に残っている。平田の妻入り家屋の間口は3間で奥行きは17間の細長い短冊型である。松江藩が定めた町人1軒分の、間口6間・奥行き17間より間口は半分だ。これは農民を対象とする零細な商人が多く、間口の幅で定められた租税額を軽減する目的だったようだ。
この妻入りの商家の建物は中2階建てで、2階部分は白漆喰塗り込めでナマコ壁と格子窓を備えているのが特徴であり、見事な町並み景観を見せていた。妻入り商家の建物は本町通りから灘町に多くその周辺部になると、平入りと妻入りが入り混じっている。
本町・灘町などは間口の狭い妻入りの商家の建物が多いが、平田船川の北側の平田町(旧新町・旧袋町・旧片原町・宮の町など)の奥行きの取れない敷地では、全て平入りになっていた。
今の平田町(旧新町・旧袋町・旧片原町・宮の町など)には、平入りと妻入りが入り混じった、重厚な商家の建物が連なり、ナマコ壁がいっそう町並みを風格あるものにしていた。

この平田市の町並み探索で本町など中心部の妻入りの家を訪ね損なった。灘町までは訪ねたのであるが、その先の本町を訪ねなかったのは悔やまれる。次の機会にはぜひ訪ねたい。
町並み指数 50
参考文献     
  島根県の歴史散歩  山川出版社  島根県の歴史散歩編集委員会  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  島根県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1995年
  

平田町の町並

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