光市室積は山口県西部で周防灘に小さく突き出した半島の付根から半島にかけての地域である。江戸時代は萩藩領。 室積村は室積湾を抱え、古くから開けた港町で、瀬戸内海交通の要衝であり、商人・海賊衆によって発展した。 慶長5年(1600)検地帳には室積郷、寛永2年(1625)検地帳に室積とある。 慶長15年(1610)検地帳では屋敷数235軒(内室積浦102軒)。寛永2年(1625)検地帳では屋敷数254軒(うち室積浦134軒)とある。 寛文12年(1672)に開発された西廻航路によって、諸国の廻船の出入りで賑わっていたが、享保末期(1716〜36)に始まった漁業不振のため、室積は衰退していった。 室積が本格的に復興するのは、萩藩が宝暦11年〜12年(1761〜62)に検地を断行して撫育方(ぶいくかた)を新設し、新規事情を展開してからである。 明和6年(1769)室積会所(越荷会所)を設置し、御米売捌会所・御米蔵も建てた。明和9年(1772)には米蔵3棟を等を増築し、海上交通の要衝であることを利用して北前船などの廻船の誘致に努め、港も赤間関(下関)や中関(防府)と共に施設を整備して、室積港の復興を図った。 そのため港町は江戸中期から発展し、西廻航路の北前船が多く出入りするようになり、港町は活気に溢れた。 室積村は「防長地下上申」では家数682・人数2,603。天保12年(1841)の「防長風土注進案」では家数1,079・人数4,827とあり、家数のうち農業者以外に大工26・商人26・廻船持18(廻船数36)・船持17(漁船23艘)・漁民14・鍛冶屋9・木挽6・左官1・紺屋1・船大工1などがいた。天然の良港を持っていたのと、藩主体の復興事業により廻船持や廻船乗りが多くいた。 室積浦は江戸後期に室積村から分離して室積浦として独立したもので、萩藩領はそのままであった。 室積浦は「防長風土注進案」では田は無く畑8町4反余り。また給領地は無く、全て蔵入り地。家数580・人数2,454。軒数のうち農業者以外に舸子日雇い277・漁民117(漁船71)・商人63(うち廻船持3)・廻船持41(廻船44)・船大工23・煮売屋餅屋12・問屋12・鍛冶10・左官5・桶大工5・家大工4・紺屋4・畳刺2・魚問屋2・茶屋2等がいた。 この数字を見ても、廻船業・漁業が盛んであったことが判る。 そして明和4年(1767)には、建て混んでいた町並みの整備も行われ、幅2間半の道路を長さ2町程にわたって通し、左右に屋敷を配して、一筋の町並みが計画的に形成された。こうして造られた町並みが、今日見られる室積の町並みの基礎となっている。 明治に入っても暫く繁栄は続いたが、山陽鉄道が明治30年に開通し、鉄道から外れた室積は衰退の一途をたどった。 今町並みを歩くと、明和4年(1767)に計画的に造られた道、今の海商通りに古い伝統的な様式の家屋が点在している。かってこの一筋の道の両側に商家や廻船問屋の豪邸が建ち並んでいたのだろう。町並み保存に向けて活動されている様子が判るが、肝心の古い伝統的な様式の家屋が僅かになってしまった現在、保存運動もどこまで住民に浸透するのかと思う町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988年 山口県の地名 平凡社 下中邦彦 昭和55年 |
室積3丁目の町並み |
室積3丁目の町並み |
室積3丁目の町並み |
室積5丁目の町並み |
室積5丁目の町並み |
室積5丁目の町並み |
室積7丁目の町並み |
室積5丁目の町並み |