高屋町白市は東広島市の東部に位置する。丘陵地に発達した集落であるが、廻りの集落と異なり伝統的な様式の家屋で構成された独特の町並を見せている。 「芸備通志」(文政12年(1829)完成)は「文亀年間(1501〜03) 平賀保成が高屋東村の白山に城を築き、麓に府市を開いて白市と名づけたという。 国郡志書出帳では家数179・人数688とあり、牛馬市は文亀3年(1503)白山城主平賀弘保によって始められたというが、本格的の行われ出したのは元和3年(1617)といわれている。明治以降白市は伯耆大山、備後久井と並ぶ牛馬の三大市と称され、市町として発展したが、中世末からかなりの市町が形成されていたようだ。 江戸時代には南北の通りを本町、東西の通りを西町といい、江戸初期には現在に近い町並が整っていたと思われ、交通の要衝で地方経済の中心地であった。しかし明治27年に開通した山陽鉄道は白市を避けて通ったため、交通の要衝としての性格がなくなり、自然と寂れてしまい今に町並を残す結果となった。 白市村絵図(木原家蔵)によると、瓦葺きの大規模な家は全て南北の主要路に面し、木原屋・上の屋・新屋・沼田屋・古屋(胡屋)・松屋・大文字屋など9軒の屋号が書かれている。これらの商人は木原氏(木原屋・大文字屋・沼田屋)や今井氏(胡屋)など、平賀氏旧家臣が多い。また、白市村絵図(木原家蔵)によると延宝7年(1697)の家数は106・人数648。芸備通志では家数179・人数712。特産品として油瓦・鋳物があり、鋳物は元治元年(1864)の御領分諸色有物帳によると広島藩内7ヶ所の鋳物師所在地の一つであった。 その中の木原家(国重文)は今でも健在で、寛文5年(1665)に建てられた主屋や蔵など豪商の佇まいを残している。木原家は江戸時代の始め頃から酒造・製塩をはじめて、近年に至るまで豪商として栄えた。 この周辺の集落同様、白市の集落も赤い瓦屋根であったが、どういう訳か木原家だけが黒い本瓦で葺かれていた。 広島県の歴史散歩 山川出版社 広島県歴史散歩研究会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
高屋町白市の町並 |
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高屋町白市の町並 |
高屋町白市の町並 |
高屋町白市の木原家 |
高屋町白市の町並 |
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