伯太町は月山富田城のあった広瀬町の東隣町で、島根県の最東部に位置する町である。 伯太村と呼ばれるようになったのは、昭和27年に安田村・母里村・井尻村が合併して伯太村になったときからである。 中世には富田城下町(広瀬)と同じで領主はたびたび代ったが、関ヶ原の戦い後は松江藩領となり、寛文6年(1666)からは、松平直政松江藩主の三男隆政が一万石を分知され、藩館が母里(もり)村に築かれ母里藩が成立した。 歴代藩主は参勤交代をせずに江戸に在勤していて、藩主が国元に帰ったのは慶応2年(1866)の第2次長州征伐のときのみであった。母里藩は小藩のため宗藩松江藩の影響が大きく、全てにわたって松江藩の傘下であった。 江戸時代には母里集落は都市的発達をみて、母里町とよばれ、この母里町を含んだ村の西部を西母里村、東部を東母里村と呼ばれた。 尚、江戸時代の地方文書では、西母里村・東母里村・母里町の三区分されたり、西母里村と東母里村の二区分されている例が多いが、正保国絵図には母里村一村が記されている。 正徳2年(1712)には東母里の家数64・西母里61とある。明治期になると公的には母里町・西母里村・東母里村となり、「郡村誌」では母里町を含む西母里村と東母里村に分けられている。 同書によると、西母里村は戸数358・人数1,572。産物は箪笥・酒・菓子・素麺・生蝋・薪などで職業は農業250・商業108。東母里村は戸数150・人数645。産物は酒・醤油・素麺・生蝋・紙・薪などで職業は農業130・商業20。 町並みは石州瓦の黒褐色の瓦で、平入りの中に所々妻入りが混じる町並みである。 切り妻造りで中2階建てで、町並みそのものは隣町の広瀬の町並みとそっくりであった。 この町でも一部の地域で、道路とは斜めに構えた商家の建物が連なる地域があった。伯太は陣屋町であるから、当然と言えば当然だが、このノコギリの刃のような町並みがかたまってあるのはどうしてだろう。一般には防衛のため、身を隠すためと言われているが。 黒褐色の瓦屋根が続くこのまち並み、山陰独特の風景であり、どうしてか寂しい感じに思える。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
母里の町並 |
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