萩市の町並み 
堀内・呉服町・平安古・川島
地図


江戸屋横丁の町並み
  萩は山口県の日本海側に位置する。戦国時代になると、周防を中心とする七ヶ国の守護大内義隆から周防、長門を支配下に収めた毛利元就の領地になった。
毛利元就は出雲の尼子氏を倒して、中国地方10ヶ国(中国地方全域)120万石を制覇した。ところが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍に組んだ毛利輝元は、周防・長門の2ヶ国(36万石)に封地を削減された。そしてその居城を萩に定め、慶長9年(1604)から4年の歳月をかけ築城し、慶長13年(1608)に萩城は完成した。そして萩が防長2国の政治・経済の中心地となり、デルタの小さな寒村が大きく発展し、多いときにはデルタの中の人口が10万を数えるまでになった。
城郭は平山城で、山頂に詰丸(要塞)を備え、山麓に本丸を築いて天守を建て、内堀の内側を二の丸、中堀の外側に三の丸を配して堀内と称し、さらに外堀の外側に町人地、中下級の武家地が配された。
今でも町人町には虫籠窓を持つ、伝統的な町家が連続して、重厚な町並み景観をつくっている。橋本川や松本川に沿っては武家屋敷(平安古、江向、土原)も次第に形成せれて、敷地の周囲を長屋門と土塀で囲った、風格のある屋敷地の景観を造りだし、それが今に残っているのである。
萩城は第13代敬親が文久3年(1863)藩府を山口に移すまでの約260年間、毛利36万石の居城となった。明治7年に城郭は解体され、今は土塁・石垣が往時を偲ばせている。
町人地は元禄年間(1688〜1704)までに26町が成立し、享保6年(1721)には28町になり、以後町数は固定された。町方の家数・人数は寛文7年(1667)に28町で2750軒、享保元年(1716)では28町で3844軒・1万4633人、寛政元年(1789)では28町で4002軒・1万791人であった。
しかし、藩主の居城を文久3年(1863)に山口へと移したため、重臣たちの多くも萩から出ていってしまい、萩は次第に時代から見離され、停滞し続け静かな古都としての道を歩んできた。
重臣が屋敷を構えていた堀内では、武家屋敷の多くは空家となり、明治維新後は長屋、長屋門、土塀を除き建物や庭園は取り壊された。更地となった武家屋敷には、士族授産のために夏みかん栽培が奨励された盛んに行われた。マキの防風林とともに土塀が、夏みかん畑を守るために役に立った。
今、萩の町並みの中心になっているのは、旧三の丸の堀内である。景観は「夏みかんと長屋門と土塀」の町であって、藩政時代の町割りを正確に今に留めている。
堀内地区は東西約900m・南北約660mの地域であり、藩政時代には藩の諸役所や毛利氏一門、永代家老、寄組といった重臣たちの邸宅が建ち並んでいた所である。
永代家老益田家の物見矢倉や旧周布家の長屋門、繁沢家の長屋門、永代家老福原家の屋敷門(県文化財)、口羽家長屋門と主屋(国重要文化財)、旧二宮家の長屋門、梨羽家の屋敷、祖式家の隅矢倉、旧児玉家の長屋などがあってよく旧態を残している。
萩の武家屋敷は堀内の他に、平安古地区にも展開する。橋本川に沿った東西150m・南北300mの地域で、この範囲が堀内地区と同様藩政期の町割りをよく残していて、旧坪井九右衛門の長屋門や主屋、児玉家、町田家の屋敷跡などがあり、往時の面影を残している。
城下町では、御用商人であった「菊屋家住宅」(国の重要文化財)がある。初代菊屋友味は城下の町割を命ぜられ、以後代々藩の御用商人として重要な役割を果たしてきた。他に城下町の菊屋横丁に高杉晋作旧宅、江戸屋横丁に青木周弼旧宅、木戸孝允旧宅などがあり観光客で賑わっていた。
町並み指数 70
参考文献    
  萩散歩案内記  萩市観光協会  沢本良秋
  山口県の歴史散歩  山川出版社  山口県の歴史散歩編集委員会  1993年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年/
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988

藍場川最上流にある旧湯川家

平安古の鍵曲り

菊屋横丁

堀内の鍵曲り

江戸屋横丁の町並み

菊屋住宅
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