萩市椿東(ちんとう)は大変広い範囲の町で、今回訪ねたのはその中でも越ヶ浜と云われる部分で、越ヶ浜は椿東の北西端に位置し、北は嫁泣湊、南は越ヶ浜湊、西には笠山があり、東は名切山と馬鞍山がある。 江戸時代を通じて萩藩領。浦としての越ヶ浜の独立は、他の浦よりやや遅く、延宝4〜5年(1676〜77)頃、浜崎代官勝間田権左衛門就通が越ヶ浜を開き民家を誘致して以来浦として発達し、天和元年(1681)新浦取り立てとなったもの。 「地下上申」の記載では、家数103・人数369・漁船63艘でうち1艘は60石積みのいさば船(魚の運搬船)とある。同じく「地下上申」の寛保2年(1742)分には漁船77艘・鰯船8艘。幕末の「郡中大略」では漁船102と増加している。 貞享年間(1684〜88)より越ヶ浜の漁師は、浜崎の魚問屋商人に販売を一切ゆだねていたので、魚は全ていさば船に積んで浜崎に運んだ。この販売は明治32まで続いた。 「郡中大略」では家数202・人数989と増加、当浦の漁船の増加と共に漁業が著しく発展したことを示している。 また当浦は風待ち港として北前船の寄港地でもあって、越前屋の船宿帳には北海道・北陸・山陰・九州・瀬戸内方面の名が見られる。港には船宿や貸席(遊女屋)があった。貸席は萩城下附近は越ヶ浜だけにあったので、「行こうか越ヶ浜戻ろうか小畑、ここが思案の馬ノ鞍」と歌われ、馬鞍峠を越えて越ヶ浜へ通った。 当浦には高札場・大砲台場があり、お茶屋の池(現明神池)の東畔に藩主の休息所である御茶屋があった。 今、集落内を歩くと、赤褐色瓦と黒瓦屋根が入り混じりいる。重厚で伝統的な様式の家屋が連なる地区と、漁師町特有の建て混んだ地区がある。伝統的な様式の商家建物は西廻り航路の寄港地としての問屋や廻船業者の建物であり、近畿・瀬戸内の町並みとよく似ているのは、その地域の文化・伝統の伝搬で伝わったものだろう。漁師が住む漁村の風景は狭い路地道にひしめき合って建っている建物群である。その両者が区別することなく混在している地区もあり、この越ヶ浜はなかなか見ごたえのある古い町並みを形成していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1988 |
椿東の町並み |
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