江津は島根県の中央部やや西の江川の河口左岸に位置する。 古来から江川舟運の要地。江戸期は幕府領大森代官所支配地だが、天明5年(1785)〜寛政4年(1792)間は浜田藩領。江戸時代には郷田村と呼ばれていた所。 江川は古来より、山陰・山陽連絡の動脈として利用され、江津(郷津湊)は海と川の結節点のため、江川下り船の鉄・木材・薪炭・楮など、上り船の米・塩・海産物など、又江川舟運と海上航路の結節点という地の利から物資の一大集散地となり、河岸には廻船問屋・酒造家等の倉庫が建ち並び繁栄した。 海岸部では、早くからイワシ網を主体とした漁業集落が成立し、山間部農村の人口流出現象の受け入れ地帯がこの漁村であった。この人口増を支えたのが、海岸砂丘地帯の開作で、この作業は砂鉄採取作業と呼応して進行した。 村の南の島の星山の北麓では古くから鉄穴流しによる砂鉄採取が行われていた。鉄穴流しは多量の土砂を流出する。この土砂を人工の水路や木樋を通して砂丘地帯に送り、海岸砂丘地帯を耕地にする作業が、宝暦頃(1751〜64)から進められた。これは砂鉄採取と並行し漁村の労働力確保と食糧確保を図るものであった。現在の江津市の発展の中心となっているJR江津駅近くの国道9号線より北側は、全てこのようにして開作された耕地であると云うから驚きである。 元禄10年(1697)の石見銀山領村々覚では家数本家62・門屋32・人数493とあるが、寛政3年(1791)では家数273・人数1,240。文政2年(1819)では家数327・人数1,726と大幅に増加している。明治政府が明治初年に編纂した「郡村誌」によると家数647・人数2,778とあり、民業は農を業とするもの236人、商を業とするもの71人、大工・左官・桶工・木挽・石工・鍛冶・提灯張・陶工・紺屋職・表具師などが挙げられている。 現在の江津の中心地は江津駅の周辺だが、かっては小高い丘を挟んだ南側の江川河口左岸沿いが湊であり、商業の中心地だった。今この江津本町と呼ばれる辺りを歩くと、赤褐色の瓦屋根で伝統的な様式の大型建物が多くある。白漆喰塗込めの家屋も多く、かっての繁栄を物語る町並みが連なる。海岸に近い所だから当然板貼りの家屋も多くあるが、その中にある白漆喰塗込めの家屋の存在がより町並みを際立たせている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 島根県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
江津町の町並 |
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