府中は古くから市場町として発展してきた町で、福山に城下町が出来るまでは芦田郡の中心都市であった。 関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長移封になり、この地は広島藩福島氏の支配となる。元和5年(1619)福島氏の改易により、福山に入った水野勝成の所領となる。元禄11年(1698)福山藩水野氏の断絶により幕府領となる。元禄13年(1700)福山藩松平忠雅、宝永7年(1710)福山藩阿部正邦の所領となり幕末まで続く。 府中は中世末期には一日市・六日市など郷村市場として成立していたが、慶長6年(1601)の福島検地により府中市村59万石余・府中村487万石余と町屋敷分と地方が分けられた。しかし、元和5年(1619)水野氏が福山に入り福山城下町の建設が本格化するや、府中市村の町屋敷分の商人や職人の多くが福山城下町に移住を強制された。その結果府中市村は市場の機能を失い一挙に衰退したが、新たに在郷府中市が成立し活気が出てきたがその時期は定かでない。 府中市村は文化年間(1804〜17)の「福山志料」によると、その頃「上市・下市・横町・上辻町・下辻町・西町・新町・河原町・飛屋町」の9町があり、村の広さは東西7町・南北12町であった。宝永8年(1711)の家数522・人数1,879。文化6年(1809)頃には家数789・人数2,725であった。 寛永年間(1624〜44)石州路の宿駅となり、宿場町としても賑わった。近郷の産物集散地であり、芦田川の川舟を利用して運搬も行い、西隣の出口村、東の町村と一連の市街地を形成していた。備後郡村志には町場があり諸商売が行われ賑やかであると、また農業のほか男は諸商売や日雇い、女は木綿を織っていると記している また、府中市村の北に位置する出口村は石州路に沿って町並が続き番所が置かれていた。 宝永8年(1711)の家数149・人数622。文化6年(1809)頃には家数193・人数791であった。 古い町並は府中町の旧上本町から旧石州路が通る出口町にかけて展開する。重厚な屋根を有する呉服屋があったり、漆喰塗り込めの虫籠窓のついた商家、袖卯建をあげた商家の建物などがある。旧上本町辺りには大型の伝統的な商家の建物が残っているが数が少なく、点在程度であるが、そこから続く出口町の旧石州路沿いの町並は大型の商家の建物は少ないが、伝統的な様式の建物が連なり見ごたえのある町並を形成していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
府中町の町並 |
府中町の町並 |
府中町の民家 |
出口町の町並 |
出口町の町並 |
出口町の町並 |
出口町の町並 |
出口町の町並 |
出口町の町並 |
目崎町の町並 |