千田村は蔵王山山麓の北側に開かれた小盆地に発達した集落で、福山城下から北へ出雲・石見に向かう道と、山陽道と備後国府のあった府中から芦田川沿いに福山湾岸に出る交通路の交わる要衝で、千田村の横尾には小規模の町並があった。 千田村は芦田川下流左岸の低地で、芦田川が氾濫するたびに沼となり、容易に水が抜けず、大沼田となり稲作の植付け耕作が出来なかった。 千田村は江戸のはじめは福山藩領であったが、元禄11年(1698)幕府領、同13年より再び福山藩領となり明治を向かえる。宝永8年(1711)には家数155軒、人数1189人。文化年間の戸数は331戸、人数1594人であった。 江戸時代には、名産横尾飴の名で親しまれた飴屋など、各種の商店が軒を並べた街道筋であって、今でもその名残で古い町並が残っているが、交通の要衝であり、国道が旧山陽道を踏襲したために、大型の車が商家の軒先をかすめて頻繁に通るため、買物客の足も遠のき、車が通過するだけの町並になってしまった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
横尾の町並 |
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横尾の町並 |
横尾の町並 |
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御幸町中津原の町並 |