松永村は江戸時代に干拓により塩田として開発されて成立した村である。 万治3年(1660)水野福山藩家臣本庄重政が神村・柳津村沖の干拓に着手し、先ず塩田として開発された。その後、町を設けて各地から入植者を募り、塩田経営に従事し、松永と命名された。 福山藩も塩田経営には積極的であったので、宝永8年(1711)の家数194・人数1,668(男923・女745で男が多いのは浜子(塩田労働者)の存在と思われる)と多くの人が移り住んだ。菅茶山(1748〜1827)の「福山志料」によると文化年間(1804〜18)の家数595・人数2,489とある。 松永塩田の面積は水野検地では39町6反余りであったが、元禄13年(1700)の備前検地では56町4反余りと増加している。塩浜軒数は元禄11年(1698)当時52軒であったが、その後、塩田の統廃合が行われたらしく、48軒になり、慶応年間(1865〜68)には5浜が畑地となり43軒に減少している。 松永塩の販路は北前船により越後や北国筋が中心であった。 明治に入っても益々製塩業は盛んになったが、明治17年の暴風雨で塩田が全滅したが、復興に漕ぎつけている。そして明治38年には塩の専売法が実施され需要が増大した。 また、この頃から当地で下駄の製造が始められた。初めは桐で作られていたが、その後北海道産の栓材から地元産の杉や松と変わり、昭和9年には人口の16パーセントが下駄関係者であった。 今回訪ねたのは、江戸時代初期には海岸線だったと思われる地域で、古い町並みはその海岸線がそのまま羽原川になったと思われるところである。川に支柱を立ててその上に家を建てる独特の光景が見られ、その表側が道路になり古い町並みが展開している。下駄製造の全盛期にはこの川を遡って材木が運ばれたのだろう。つい最近まで使われていたと思われる、木材の搬入路がこの川に通じているのが見られた。 町並みを構成する家屋は比較的新しく、この地域の一番繁栄した大正時代の建物が多いと思われ、殆どの家が2階建てであって、土蔵を備えた家も多くみられた。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
松永5丁目の町並 |
下駄製造の木材を陸揚げしたと思われる |