吉田町は広島県の中央北部に位置し、三次市街から南西約25kmの旧出雲街道に沿った町。今の国道54号線は古道と思われがちだが、この道が整備されたのは、毛利氏の本拠地だったこの吉田から、広島城に本拠を移して、道路を整備してからである。 吉田市街地の北方に、中世毛利氏の郡山城跡がある。吉田の町は郡山城の城下町として町の基礎が形作られた。毛利氏全盛時には城下の人口は数万にも達し「西の京」「吉田千軒」ともいわれる状況だった。 天正19年(1591)毛利氏が広島に本拠を移して、この郡山城は廃城になった。 毛利氏が造った城下町は、郡山城の西南麓に毛利氏の居館が構えられ、その南150m辺りに北西から南東に、ほぼ2間ばかりの大通りが通され、北西から三日市・六日市・内町・立綴と並んでいた。そしてその南側にも同じような道が設けられ、それが現在の本通りの元である。 関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が長門・周防に移ったのち、広島城には福島氏が入封し、元和5年(1619)に改易の後、浅野氏に引き継がれ、当地は広島藩領のまま江戸時代が過ぎた。 毛利氏が広島へ移って以後、吉田は広島城下と山陰地方を結ぶ出雲路の宿駅となり、城下町から宿場町へと変貌を遂げた。 福島氏に代わってからも、三次・布野・赤名を経て出雲国に繋がる出雲路が整備された。江戸期この出雲路は脇往還として、特に寛永10年(1633)の幕府巡見使の巡察を機に集中的に整備され道幅7尺となった。出雲路の吉田宿に巡見使一行が宿泊している。 宿場町となった吉田は寛永12年(1635)までに町方と地方に分けられていた。「国郡志書出帳」には吉田の家数908、うち町方分411・地方分491とあり、正徳年間(1711〜16)の「芸備諸郡駅所市町絵図」によると、三日市・六日市・内町・新町・鯨田町・十日市・下市・石橋町等の町筋が見られ、川手・新町・立縄手・見行縄手……などの小路の両側にびっしりと町屋が建ち並んでいる。 明治に入ってからも郡の行政・経済の中心地となり、多くの基幹施設が設けられたが、鉄道が東側の谷筋を通ったため町の発展が阻害された。 今、古い町並みは江の川の支流の多治比川の両岸に展開している。中でも多治比川の左岸の本通と云われる通りの両側に展開し、昔ながらの伝統的な様式を備えた商家の建物が点在する。酒屋・呉服屋・菓子屋など古い町並みを代表する業種の商家が健在で営業されていたのは嬉しいものであるが、町並みを構成するほどに至らず、歴史ある町並みではあるが、町並みとしてはもう一つ評価できない。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
吉田町吉田の町並 |
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