安芸高田市向原町は広島県のほぼ中央部、県道37号線沿いで広島市街と三次市街との中間少し三次市側に位置している。 江戸時代は坂村といい広島藩領であった。坂村は交通の要衝であった。広島と三次を繋ぐ主要街道の出雲路の西側に位置している。出雲路が上根峠という難所があるのに対し、この坂村を通るルートは比較的なだらかな丘陵地で通行も多かった。また坂村から三篠川を遡上し、別府村を経て、椋梨川・沼田川沿いに三原へ出る三原往還が分岐している等、坂村は南部方面への交通の要衝であった。 毛利輝元が広島城築城にあたり吉田郡山城からの資材輸送に三篠川を強引に通したという。吉田村を通る出雲路では川船は利用できない上、上根峠という難所がある。そこで吉田村から坂村を経て長田村までの道を整備して、そこから船運を使う方法を取ったのである。当時の船運は三篠川でももっと下流の、下深川までしか開通していなかったが、強引に船を通したのだ。また吉田村から長田村までの道も整備されたが、この道筋に領民を並べて、資材や荷物を手渡しで運んだという。 この三篠川の船運が長田村高大地まで開通するのは浅野氏の時代になってからである。 そして元禄3年(1690)長田村高大地に設けられた御繰出所を基点に5隻、後に10隻の川船が、秋から翌春まで、年貢米を主として、鉄・割木・炭・芋麻・紙など諸物を輸送するようになった。そして明治22年になって陸運に代わり、川船の運送が終了した。 県道37号線が旧道を通ることなく、JR芸備線の線路の反対側をバイパスとして通ったので、旧道沿いの町並みはそのまま残った。平入り切り妻造りの商家の建物の形態だが、千本格子を残した家は無かったように思う。袖壁は多くの家屋でみられ、赤褐色の瓦と黒色の瓦が入り混じった町並みだ。明治以降に建てられたと思われる建物がおおく、江戸時代までさかのぼる建物は無いように思えた。 広島県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 |
向原町坂の町並 |
向原町坂の町並 |
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