阿武町奈古の町並み 
奈古
地図


奈古の町並み
 阿武町奈古は萩市街から北東に約12km日本海に面した漁村・港町・市場町であった。
江戸期初めは萩藩領であったが、元和7年(1621)から徳山藩領となり明治を向かえる。
農業主体の集落であったが、慶長15年(1610)の検地帳では木与村と一緒で、家数は228。うち百姓屋敷125・市屋敷31・浦屋敷72とある。単純にみて市屋敷は商業、浦屋敷は漁業と見てよいだろう。寛永2年(1625)検地帳では同じく252、内訳は150・31・71とある。
寛保2年(1742)には奈古村一村で458、うち百姓屋敷335、浦屋敷117など、同年の人数1,624、うち百姓1,207、浦方417とある。
奈古には萩から益田へ通じる石州街道(北浦街道)(国道191号線)が通り、奈古の市は市恵比寿を祀る市場町の商業集落であった。郷川河口の奈古浦は漁業の他に港町として、萩方面への海上交通の要衝でもあった。
漁業も漁船20艘を持ち、ハマチ・小イワシ・サバ・ブリ漁があり、塩浜もあった。浦方には人家が密集していたので、度々大火が発生し、元禄3年(1690)120戸、同16年(1703)130戸、宝暦6年(1756)約200戸を焼失している。
明治12年奈古浦の家数251・人数1,025。漁船129艘。
明治15年の奈古村家数622・人数3,049とある。
古い町並みは旧石州街道に沿って両側に商家の建物が並び、ひとたび路地を入ると漁師町の様相を示す細い路地道が続く。日本海側に多かった赤褐色の瓦屋根の家は見られない。切り妻造り平入りで、中2階建ての建物が連なり、多くの家で袖壁が備えられている。中には漆喰塗込めの虫籠窓を備えた家屋も見られる。こうしてみると西廻り航路の影響か、近畿圏の古い伝統的な様式の建物とそっくりだ。文化の伝搬による影響が大きいことが判る。只、近畿南部に多い本瓦葺きの家屋は見られなかったが、見ごたえのある古い町並みを展開していた。
町並み指数 50
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1988
  山口県の地名  平凡社  下中邦彦  昭和55年

奈古の町並み

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