湯梨浜町橋津は鳥取県中部、東郷池と繋がる橋津川河口に位置する。 江戸時代初期には湊村・湊宿とよばれ、郷帳類では同村名で幕末に至る。只、江戸時代中期以降は橋津村と称されるようになり、嘉永7年(1854)には領内限りで橋津村と改称された。 江戸期は鳥取藩領、村高は「元禄郷帳」18石余、「天保郷帳」54石余、「元治郷帳」62石余、「旧高旧領」66石余。「元禄郷帳」「天保郷帳」には湊村と見える。宝暦3年(1753)頃の河村郡村々明細帳によると橋津御藏棟数12、人数896、通船35・大領船2・小猟船33・梶船7・川船66。幕末の家数298とある。 天神川や東郷池の水運を利用して物資が集められ、橋津はその港町として賑わった。 橋津の鳥取藩藏は正保2年(1645)に設置され、多い時で16棟もあった。廻米積出しなど諸物資の流通拠点となったため、慶安4年(1651)に宿駅に指定された。 寛永14年(1637)藩米の江戸・大坂回漕時に橋津浦などから積み出したのをはじめ、橋津船の活動は広く活発であった。藩に指定された廻米船である御手船として幕末には当地の信応丸・誠興丸など5艘が知られている。享保14年(1729)塩を積んだ橋津船2艘が賀露浦(現鳥取市)に入っているなど、塩の売買・輸送も見られる。 慶応元年(1865)の記録では高60石余、家数300軒程とあり、御藏御用や船稼ぎ等で渡世をしている。 港町として賑わっていたので、昭和初期までは多種多様な商店が軒を連ねていた。今もその町並の名残を見ることができ、古御藏と片山藏の二棟の鳥取藩藏が残っている。 東隣の集落の宇野は赤瓦が多かったが、この橋津は殆ど赤瓦が見られないのはどうしてだろうと思いながらの探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1992年 |
橋津の町並 |
橋津の町並 |
橋津の町並 |
橋津の町並 |
橋津の町並 |
橋津の町並 |
橋津の藩倉 古御藏 |
橋津の藩倉 片山藏 |