寄島町の町並み 
寄島
寄島には大字が無いため、一般的には
東安倉・中安倉・西安倉・国頭・早崎・大浦
地図


早崎の町並み
 地名は神宮皇后が立ち寄ったという伝説により付けられたもの。
江戸期は鴨方藩領で、寛永年間(1624〜44)の備中国絵図によると、東大島と西六条院村の一部であった安倉地区、および三郎島と記された部分からなっていて、いずれも松平新太郎(池田光政)の所領と記されている。人々は塩田と漁業で生活していたようだ。
塩田は近世初期の揚げ浜式から次第に入浜式の塩田に移行し、鴨方藩による御用場が設けられ、塩田管理が行われてからは製塩量は急増した。
明和年間(1764〜72)に、水島水域を独占的な漁場にしていた西浜(笠岡市金浦)と国頭・安倉・正頭の3ヶ浦の間で漁場争いの記録があり、、近世中期以降漁業が盛んであったことが伺える。
近世末期には安倉は多くの廻船と漁船を所有する集落として発展していた。「船御改判形帳」によれば、嘉永4年(1851)安倉の総船数は112艘で、廻船が38艘、漁船74艘であった。
早崎の寄島港は北前船の寄港地として、また鴨方藩の外港として賑わっていたが、明治元年 鴨方藩によって港が整備され、寄島港は千石船の来る北前航路の寄港地として問屋街を作ったので、飛躍的に発展し、物資の大集散地となった。
明治14年の西南諸港報告書によると、北海道産物を扱う問屋は3軒、仲買9軒あり、綿花の肥料であった干鰯が陸揚げされ、備中・備後の綿農家に売られた。積荷は当地産物の塩が最大の商品で他に、鴨方素麺・畳表なども積み出されていた。
しかし、明治24年に山陽鉄道(現JR山陽本線)が開通し、物資の輸送が鉄道に移り、その上、港に土砂が堆積し、度々に浚渫にもかかわらず大型汽船の入港に不便を来たし、港の機能は急激に衰退していった。
江戸中期から新興の漁村として成長した寄島の漁業は、時代が進むに連れて、瀬引網・縛網などの大規模は漁法が出現し、多くの網元が誕生した。
今 町並みを歩くと、北前船のもたらした繁栄の面影は町並みのあちこちに残っている。町並みは西から大浦・早崎・国頭・西安倉・中安倉・東安倉と続く。
切り妻造り又は入り母屋造りの中2階建て、中には虫籠窓も無い平屋建てだが屋根が2層になった重厚な商家の建物もあった。瀬戸内特有のナマコ壁も多く見られ、北前船で賑わい繁栄した当時を彷彿させる町並みである。
町並み指数  40
参考文献
   岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
   岡山県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1988年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

国頭の町並み

国頭の町並み

早崎の町並み

西安倉の町並み

西安倉の民家(本瓦葺)

中安倉の民家(入り母屋造り・本瓦葺)
お寺でなく、個人住宅ですが無住だった
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