米子には戦国期に伯耆・出雲の国境として砦が築かれ、中海に港が開かれ、江戸期には米子城下町の整備が行われ、米子港を中心とした商業の町として発展した。 戦国期には交通の要衝の米子は山名氏、尼子氏、毛利氏などの戦国武将の戦場となったが、関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)駿河府中の中村忠一(一忠)18万石の領地となった。当時忠一は12歳の幼少のため、後見役として横田内膳村詮が任ぜられ、米子城の築城、城下町造り、商業の発展に貢献した。 城下町の整備も進んでいたときの、元和元年(1615)の一国一城令により、伯耆各地の城が取り壊され、その城下の住民が米子に移り住んできた。こうして多年伯耆の中心であった倉吉から米子にその中心が移っていった。 元和3年(1617)播州姫路城主池田光政が因幡・伯耆2国32万石を領して鳥取城主として転封され、米子城には光政の一族池田由之が配された。寛永9年(1632)光政は岡山の池田光仲と国替えになり、米子城には筆頭家老荒尾但馬守成利が城主として任ぜられ、そのまま明治維新を迎えた。荒尾氏は地方知行制を実施した。これを「自分手政治」と呼び、町政を司ったが、かっての18万石から僅か1万5000石の支城となった米子城維持は荒尾氏にとって容易でなかった。 城下の整備は天正期後半、米子城の築城と共に着手されたと思われ、毛利氏家臣吉川氏の支配下の山県九左衛門により進められ、関ヶ原の戦い後入った中村氏の後見役の横田内膳村詮の時代にほぼ完成していたようである。 町人町は米子十八町と称され、糀町・博労町・道笑町・日野町・茶町・塩町・大工町・法勝寺町・紺屋町・四日市町・東倉吉町・西倉吉町・尾高町・岩倉町・堅町・灘町・横町・内町・天神町があった。これらの町は山陰道(伯耆街道)とそれに直交する内浜街道沿いにT字状に細長く並んでいた。 寛延年間(1748〜51)の戸数は侍屋敷、町家を合わせて1,323軒・人数5,677人であり、寛政年間(1789〜1801)には3,000軒・8,345人という記録が残っている。 政治都市としての鳥取城下に対し、米子城下は荒尾氏の財政が商業・流通に依存したことにより米子湊を中心に商業都市として発展した。 米子湊に近い灘町、立町、内町には鹿島家や後藤家(国の重要文化財)などの米屋・廻船問屋などの豪商の屋敷が立ち並び繁栄していた。今も加茂川沿いには商家の土蔵や離れ座敷が立ち並び、静かな川面に影を落とし往時の面影を偲ぶことができる。 この加茂川の両側の商家の土蔵や主屋は瀬戸内にある商家の建て方と同じようで、漆喰塗り込めの中2階建て、虫籠窓を備えた重厚な建物であるが、普通の民家はかって板張り石置き屋根の名残か勾配の緩い瓦屋根であった。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
内町の後藤家(国の重要文化財) |
加茂川沿いの土蔵群 |
灘町の町並み |
灘町の町並み |
立町の町並み |
岩倉町の町並み |
尾高町の坂口家 |