米子市淀江の町並 
淀江
地図


淀江の町並
 淀江は鳥取県北西部にある米子市の東部日本海に面して位置し、集落は日本海沿岸に沿って東西に細長く形成された砂州の上に立地している。古くから宿場町・港町として伯耆地方の商業の中心地として発展していた。
この地方には多くの古墳があり、早くから開けていたところである。
関ヶ原の戦い後、中村伯耆守・加藤貞泰・池田光政らの治政を経て、寛永9年(1632)池田光仲が因幡・伯耆の国主として鳥取池田藩が成立し、以後238年間池田氏の治政が続いた。
淀江は宿場町・港町として行政・経済の上で重要な位置にあり、家数の増加が著しかった。寛永10年(1633)66・延宝9年(1681)95・宝永7年(1710)150・延享3年(1746)285・文久3年(1863)450と著しい増加を見せている。宿場町は伯耆街道沿いに東西に発達していて、幕末には横町・御蔵小路・本町など約20の町名が知られている。
古代・中世には淀江湖や多くの沼もあったが、江戸期になり徐々に干拓され農地になり、米作や綿作地となっていった。また、宝永年間(1704〜11)には淀江港の海運業が発達し、綿作を中心とする商品流通で賑わい、長尾善右衛門・今出六左衛門等の豪商も出現した。
綿作の他に、淀江の産物で有名なものに淀江傘があり、この二つの産物でもって、淀江の宿場町・港町は大いに賑わっていた。
今に残る古い町並みは旧伯耆街道沿いやその道の1〜2本海岸よりの道沿いに展開している。只淀江は明治12年に大火に見舞われ、669戸あった家の663戸が焼失しているので、全てそれ以後に建てられたものだ。
明治12年の大火前の記録では、家数598・人数2,338。明治34年の家数745・人数3,858であった。
昭和30年に国道9号線が旧伯耆街道を避けて、海岸よりにバイパスとして開通したので、古い町並みはそのまま残り、往時の面影を色濃く残している。切妻造り平入り、中2階建てや2階建てであるが、格子を残した家は見られず、宿場町よりも漁村集落と云う感じの雰囲気だった。妻側が板で張られているのは日本海沿岸部の特徴の一つであるが、屋根瓦の色は赤褐色のものが少ないのは意外に感じた。
町並指数  50
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

淀江の町並

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