矢掛町の町並み 
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地図


旧東町の脇本陣高草家付近の町並み
  矢掛町は江戸時代に旧山陽道の有力な宿場町として繁栄し、旧本陣石井家・旧脇本陣高草家が対になって現存し、健全に保存されている貴重な旧宿場である。
山陽道は幕府直轄の五街道(東海・中山・甲州・日光・奥州)についだものとして、山陽路(街道)・中国路(街道)、また西国街道と親しまれていた。
矢掛宿の成立は、詳しくは不明である。しかし創設されたのは元和〜寛永(1615〜1644)の頃であったと考えられている。この時期、矢掛村は松山藩池田領であった。これが整備されるのは寛永19年(1642)に、矢掛村が幕府領となって以後のことであるらしい。
矢掛村は毛利氏の支配の後、慶長5年(1600)幕府領、元和5年(1619)松山藩領、寛永19年(1642)幕府領、元禄6年(1693)庭瀬藩領、元禄10年(1697)幕府領、元禄12年(1699)から庭瀬藩領となる。
矢掛宿の町並みは、元禄2年(1689)の「矢掛町地子御免間数并絵図」により2間、3間、4間の間口に規模が集中し、敷地面積のでは中町には広い屋敷が多く、次いで西町、東町の順になっている。その後、安永6年(1777)に作成された矢掛町表間口御図帳表によると、間口3.5間、2.5間等の敷地と4間以上の屋敷の増加がみられ、分割統合が行われたのがわかる。
矢掛宿の家数・人数は、貞享5年(1688)家数281軒であったが、寛政元年(1789)の御巡見様御案内手鑑では家数615軒・人数2148人。文政2年(1819)の庭瀬領小田郡村々指出明細帳では家数602軒・人数2150人であった。  
町並みは東西1kmにわたって本瓦葺、妻入り、通り土間のある伝統的な商家が軒を連ね、宿場の面影を色濃く残している。
この宿場の町家の特徴は、土蔵造りの妻入りの商家が多いことである。余ほどの富豪でないかぎり妻入りである。この宿場の伝馬役の関係だ。間口が広いとそれだけ負担が大きいため、このような町並ができ上がったようだ。間口が狭く奥行きの長い長方形の屋敷である。土間が長く奥え奥えと続く町家、中庭があって一番奥にも土蔵がある。
旧本陣石井家住宅は約959坪と広大な屋敷に主屋、御成門をはじめとして、全部で11棟を数え、全て国の重要文化財に指定されている。元文3年(1738)から本陣職を務めるようになった。主屋は入り母屋造り、平入り、本瓦葺、白漆喰塗り込めの虫籠窓の中二階建て、一列のナマコ壁、千本格子、出格子、下部板張り、犬矢来付きで主屋の建替えは安政2年(1855)である。本陣用は座敷と呼ばれる建物で、通りに面した御成門を入ったところの主屋の西方にあり、本陣としての中核的機能を持つ建物である。現在の座敷棟は天保3年(1832)に建替えられたものである。 
旧脇本陣高草家は宝暦8年(1758)平田屋から分家して東平田屋と称した。脇本陣になったのは天保の頃と推定される。屋敷は約600坪、矢掛宿の中では旧本陣石井家に次ぐ広大なものである。主屋、表屋、表門、蔵屋敷等その他多くのものが国の重要文化財に指定されている。通りに面した表屋と主屋は天保14年(1843)から弘化2年(1845)にかけて建て替えられた入り母屋造り、平入り、白漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺、格子、表側全面に駒寄せが備えられていた。表門は明治初年に旧矢掛陣屋の正門を買い受けた移築したもので、庭瀬藩松倉公の家紋も入っている。
旧脇本陣の横、裏は素晴らしい白壁の土蔵や白の土塀で、両隣の板塀、白壁もきれいに修復されていて、江戸時代の蔵屋敷にタイムスリップして迷い込んだようであった。
町並み指数 70
参考文献    
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富坂 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  矢掛の本陣と脇本陣  日本文教出版  武 泰稔 他  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年

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脇本陣高草家

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本陣石井家
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