江戸時代、小田村には山陽道高屋宿と七日市宿の間の堀越宿があった。 毛利氏の支配を経て、慶長5年(1600)から幕府領、松山藩領、庭瀬藩領、幕府領、庭瀬藩領、幕府領と目まぐるしく変わり、元禄12年(1699)からは庭瀬藩領で幕末を迎える。 文政2年(1819)の庭瀬藩領小田郡村々指出帳によると、家数411・人数1,637とあり、江戸中期以降綿作などの換金作物の栽培が盛になり、農家の副業としての機械・染物が発達し、その後の機業への発展の基となった。明治24年の家数469・人数2,551。 今回訪ねたのはほぼ、江戸時代の堀越宿の跡で、かっては街道に沿って間宿の商家などが並んでいただろう地域。この小田村にも小田川の川湊があり、高瀬舟が高梁川の本流を経て瀬戸内海の港町玉島と結ばれていた。下り積荷は木炭・割木(燃料用の薪)・米麦・備中棉、上り積荷は塩・肥料などであった。小田村にはこれらの商品を扱う商家や問屋もいて在郷町でもあった。 高瀬舟は大正期まで運航されたが、陸上交通に代わってしまった。今の町並みは旧山陽道に沿って、江戸末期から明治・大正にかけての繁栄の証の町並みが残っている。 平入り切り妻造りの伝統的様式の商家建物が連なる。2階建て建物に混じって中2階建て塗込め形式の家屋も散見できる。煙だしを残した家屋、2階壁面にナマコ壁を備えた家屋、本瓦葺きの家など古い町並みを構成する家屋が多く残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |
小田の町並み |
小田の町並み |
小田の町並み |
小田の町並み |
小田の町並み |
小田の町並み |