若桜は鳥取から姫路に抜ける国道29号線、かっての播州往来、別名若桜街道沿いの宿場町である。カリヤのある町として知られている。「因幡のなかの播磨」とよばれ、元禄14年(1701)以降は若桜宿と呼ばれている。 町の背後に鬼山(鶴尾山)がそびえ、元和3年(1617)まで鬼ケ城(若桜城)と呼ばれる城郭があり、若桜はこの城の城下町であった。 天正8年(1580) 秀吉の毛利攻めによって落城したが、若桜鬼山(鶴尾山)に近世的城郭を築いたのは、豊臣大名の一人荒木平大夫(木下重賢)で、これを拡張したのが関ヶ原の戦い後、摂津三田から移封された山崎家盛である。鬼山(鶴尾山)の山頂部に石垣を築き、山麓は城下町として本格的に整備された。 江戸時代の最初は山崎氏の若桜藩領であったが、元和3年に廃藩になった。元禄13年(1700)に池田清定が鳥取藩支藩の新田藩を造ったが、当地には城や陣屋も置かず、支藩の独立制は極めて少なかった。 元和元年(1615)徳川幕府の一国一城令により城は取り壊された。元和3年(1617)播磨姫路から鳥取城に転封した外様大名の池田光政は鳥取城を拠点に因幡、伯耆32万石を統治したが、寛永9年(1632)に備前岡山に転封され、代わって岡山から分家の池田光仲が鳥取城に入り、因伯両国の統治を引継ぎ、明治維新の廃藩置県まで池田氏が治めた。 文久3年(1863)の組合帳では戸数が330軒となっている 廃城になってからは若桜街道と、氷ノ山越えを経て但馬に至る伊勢道(大江町の元伊勢外宮と元伊勢内宮)の宿場町として、また、近隣の物資の集散地、いわゆる在郷町として栄えた。 カリヤ通りと言われるメインストリートに出ると、さっそくカリヤのある民家がある。切り妻造り、平入り、中二階、黒壁で防火扉が付いていて、ナマコ壁、赤い桟瓦の石州瓦、出格子、煙だしが付いていた。 カリヤは家と道路の端の水路の間にある幅1m強程の庇が付いた私道で、豪雪地帯の名残りをとどめるユニークな「アーケード」。今は途切れて所々しかないが、昔はこれが続いていて雪や雨に阻まれずに歩くことができ、傘なしで通り抜けができた。 町並みは明治18年と44年の二度の大火後の建物だから二階建てが多く、切り妻造り、平入り、桟瓦葺(赤い石州瓦)、一階も二階も格子の伝統的な家屋が多い。カリヤであった部分を出格子に改造したような建物が多く、見越しの松がカリヤの景観に色を添えていた。 道の両側にはきれいな水の流れがあり、どの家も家の中や庭に流れを取り込み、鑑賞用の流れにしたり、鯉を飼ったり、洗い物に利用したりしている。 カリヤ通りより裏側の細い小路が「蔵通り」又は「寺通り」といい、片側に蓮教寺、正栄寺、西方寺と三ケ寺が続く。反対側はカリヤ通りの商家の土蔵が連なる。白壁、赤い石州瓦、板張りでどれも妻側を小路に向けているが、土蔵へ直接の出入り口はない。やはり小路と蔵の間には清らかな水の流れる水路があった。 この通りに土蔵がかたまってあるのは、明治の大火の際、この通りは土蔵以外の建物や人家を建てることが禁止されたために、独特の情緒のある小路が出現し現在に至っている。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 因伯歴史研究協議会 1987年 にっぽん再発見 鳥取県 (株)同朋舎出版 豊島吉則 1997年 山陽・山陰小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 |
蔵通りの町並み |
カリヤのある家 |
カリヤ通りの民家 |
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