牛窓町の町並み 
牛窓
(旧町名) 東町・新町・本町・関町・西町・中浦
地図


関町の町並み
  牛窓の港の歴史は古く、内海を行き来する船にとって絶好の潮待ち、風待ちの港だった。
室町時代になると、単なる潮待ちのだけの港でなく、有名な豪商があらわれ、朝鮮や明を相手の貿易港となった。
当時の備前の中心都市は福岡で、鎌倉時代から室町時代にかけては、福岡は備前南部の軍事・交通・経済の中心であった。また、牛窓の港は室町時代には、内海航路、外国貿易の港としても栄えたが、江戸時代になり岡山に城下町が作られると、福岡の商人の岡山城下集中のため、経済的地位も岡山に奪われ、牛窓港も鎖国による日明・日朝貿易の衰退とともに内海航路の潮待ちの港となった。
牛窓は宇喜多氏から関ヶ原の戦い後は小早川氏の支配を経て、岡山藩池田氏領となった。元禄8年(1695)に藩が港の前面に一文字波止を築造してからは、出入りする船が多くなり、西回り航路が開設されてからは、北前船も寄港するようになり、物産の集散地となった。
しかし、牛窓は物資の集散より、幕府の役人や参勤交代の大名の寄港地として重要な役割を果たした。なかでも朝鮮からの使節(通信使)では重要な役割を担った。江戸時代の鎖国中でも朝鮮とは友好関係にあったので、将軍の代がわりごとに来朝した朝鮮通信使の寄港は12回にも及び、人数は通常500人近い数であり、三使の宿泊所は初めの頃は本蓮寺であったが、後に接待の茶屋が当てられた。
3代藩主池田光政により、牛窓でなされた新田開発は、古い町並みの裏側にあたる東側の入江(大浦湾)を埋め立てて新田にしていく。塩田の方も同じ大浦湾につくっていくことであった。
東町の一画はこの時代に埋め立て造成されたものである。最初の工事は慶安2年(1649)に完成し既存の町並に接続する新町ができた。つづいて10年程遅れて寛文元年(1649)に奥之町、土手、出来島ができ、少し遅れて生田ができ町並みは完成する。
新町から土手にいたる東町には船大工が集められた。船大工の住む家屋は道の山側に並べられ、浜側が仕事場になっていた。この船大工集団による造船業は藩の目玉産業であった。
江戸中期には、大庄屋奈良屋をはじめとして、多くの豪商たちは関町から本町にかけて、つまり昔からの町筋に沿って立地しており、御茶屋を核とした藩施設に近い所に居を構えていた。
特に御用商人であった奈良屋は、江戸中期を過ぎると事業の中心を御茶屋の斜め前の屋敷に移し、御用商人としての地位を確立した。江戸後期になると多くの商家が姿を現してくる。亀屋、中崎屋、花屋、備中屋、梶屋、松屋、若葉屋といった屋号をもつ商家である。
これらの商家の配置は、町筋全域に及んでいる。町の中心というべき御茶屋に近接しては、御用商人としての地位を確立した奈良屋が陣取り、他の商家はこれらの藩施設からやや距離を置いて居を構えていた。
牛窓の中心を形成する関町から本町にかけての一帯は、江戸期以前に開発されたもので、3〜4間の狭い間口の短冊型の地割が連続している。奈良屋のような豪商は隣接する土地を買収して地所を広げているが、江戸後期から顔をだした豪商達は牛窓の中心から外れた、東町や西町、更にはもっと西の地域で、建物の増築や新築などによって町並みの景観に寄与し、牛窓の顔としての役割を果たした。
町並み指数 50
参考文献    
  牛窓  山陽新聞社  山陽新聞出版局  平成4年
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富坂 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  牛窓町史  牛窓町  牛窓町史編纂委員会  平成8年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

西町の町並み

関町の造り酒屋

中浦の造り酒屋

東町の商家

関町の町並み

西町の町並み
古い町並へ戻る