津山市城西の町並
田町・椿高下・西寺町
地図


田町の武家屋敷の町並

  津山市は岡山県中央部に位置し、津山城跡の鶴山公園は桜とつつじの名所として知られるところ。
関ヶ原の戦い後、小早川秀秋が備前・美作両国の領主として岡山に入ったが、慶長7年(1602)死亡したため除封され、慶長8年(1603)本能寺の変で織田信長と共に討死にした、森蘭丸の弟、森忠政が信州川中島より、美作一国18万6500石を拝領し入封した。そして13年がかりで元和2年(1616)津山城(鶴山城)を築き、鶴山と云われていたのを津山と改め、同時に城下町も建設した。
元禄10年(1697)に森家は4代で断絶し、翌年の元禄11年(1698)越後国高田藩主松平光長の養子長矩(宣富)が10万石で入封し、その後9代続いて明治維新を向えた。
津山藩主 森忠政は入封の翌年から町づくりにあたり、武家屋敷町は城を中心にして要所に山下、田町、上之町、椿高下、御北(北町)、城代町、南新座など12町がそれである。また防御的な配慮から西周辺部に寺院を集め西寺町とした。
町人町は大手口の南方に出雲街道を東西に通し、この道を中心に33の町人町が作られた。町人町の商家は主に出雲街道の両側に置かれ、東から東新町・西新町・中之町・勝間田町・林田町・橋本町、宮川を経て材木町・伏見町(片原町)・京町・堺町(木知ヶ原町)・二階町・元魚町・二丁目・三丁目・坪井町・宮脇町、蘭田川を経て西今町・茅町・安岡町と続く。中央部ではこれらの北側に美濃町・鍛冶町などの職人町を置き、南側には新魚町・新職人町などの小商人や特色ある職人町を配し、吉井川の堤防に沿って河原町・船頭町など水運にかかわる町や鋳物師の吹屋町を置いた。
城下町の道路は全て曲折を持たせ、直線で城に達することはできず、出雲街道は18ヶ所で折り曲げてあった。
元禄11年(1698)武家屋敷の家数は、1300軒でこのうち足軽屋敷927を含んでいる。人数は13,321人。町人町の家数は1478軒・人数は16,445人であった。
町並を歩くと、市内のいたるところがT字型の三叉路になっていて、防衛上の配慮の跡がうかがい知れる。椿高下や田町の武家屋敷跡は、武家屋敷が殆どそのまま残って点在していて、城下町らしい面影を留めている。
その一郭に白壁の格調ある門構えをもった武家屋敷の長屋門があった。この長屋門は珍しく中央に壁を造り一棟を二軒の入口に区切ってある。正面から見ると別々の門で不思議な建て方であった。
その西はお寺がいっぱいの西寺町。旧出雲街道に沿ったこのあたりは旧城下町の寺町跡で白壁に囲まれたお寺が続き、独特の雰囲気をかもし出している。
西寺町東端の蘭田川の手前辺りには小規模ながらも、切り妻造り、中二階建、出格子、なまこ壁、平入りの古い商家、民家の町並みが左右に続く地域があった。
町並み指数 40
参考文献   
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

田町の町並

西寺町の町並

西寺町の町並

西寺町の町並

椿高下の町並

椿高下の町並

椿高下の町並

田町の町並
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