倉敷市連島町の町並 
連島町西ノ浦
地図


連島町西ノ浦の町並

連島と書いてツラジマという。ここがかっては海に浮かぶ島だったとは想像もできないが、17世紀前半には未だ島だった。
兵庫北関入船納帳によると、文安2年(1445)だけで年間45艘の連島の船が、17回にわたって兵庫北関に入港している。積荷は主として米・大豆・大麦・小麦・ムシロ・材木・エビ・カニや小豆島で産出した塩などであった。
中世、高梁川流域の諸荘園の年貢は、船で高梁川を下り、河口である連島を中継地点として瀬戸内海を海上輸送されていたもので、連島は高梁川と瀬戸内海水運の接点の津として、水上輸送の要衝の地で多くの商人がいた。
近世には毛利氏の支配を経て、慶長5年には幕府領、元和3年(1617)成羽藩領となる。この頃はまだ海上に浮かぶ島であった。寛永19年(1642)成羽藩主水谷氏の転封により幕府領となる。元禄年間(1688〜1704)に再び成羽領となったようで、以後明治維新まで同藩領であった。
寛永6年(1629)東西両高梁川に挟まれた河内地方の開発の一つとして西阿知新田が完成したのをうけて、連島の北部へ北面新田開発が着手され、明暦年間(1655〜57)に完成し、連島は河内地方と陸続きになった。(大正11年に東西に分かれていた高梁川を酒津の八幡山北麓で東高梁川を締め切り西高梁川一本にし、廃川地となった地域に倉敷絹織や三菱重工などの工場や水島臨海鉄道が建設された)
また連島の南には、寛永16年(1639)に成羽藩主として入部し、連島を領有した水谷勝隆はこの干潟の開発のため、250町歩を超える地域の囲堤を築いたが、転封によって干拓事業は中断した。しかしこの囲堤を修復・補強しつつ干潟の開発は徐々に進行していった。
まず、亀島新田が造られるが、成羽藩は小藩のため開発資本が乏しかったことから、京都の町人俵屋五郎兵衛らに請負わせた。同じく連島の南の鶴新田は西之浦庄屋の三宅弥兵治が開発を請負った。彼は生魚問屋の豪商で、屋号を富島屋といい、江戸時代には大三宅と呼ばれていて、同所で米屋を営んでいた三宅氏とともに鶴新田の開発にあたった。寛政5年(1793)にまず8町歩余りが開発され、その後6次にわたる開発によって嘉永3年(1850)ようやく完成した。
寛永古図では、まだ、海上の島として描かれている。
連島西之浦の南が干拓されるまでは船の出入が盛んで、西之浦には各種の問屋が軒を並べ繁栄を極めていた。その頃の名残が今も色濃く残り、豪商の屋敷が今も健在で町並の景観に寄与している。
町並の北の山麓に船乗りの崇敬をうけた箆取神社がある。広大な敷地に立派な社殿を持っている。寛政年間(1789〜1801)までは米屋三宅氏の寄進が多いが、安政年間(1854〜60)からは新興の富豪 福島屋早瀬氏などの船問屋の寄進が増えている。
町並を構成する商家の建物は、切り妻造り平入り、中2階建て、本瓦葺で1階でも2階でも雨の良くあたる所はナマコ壁になったいる。中2階部分に虫籠壁は勿論備わっているが、その意匠は各建物独特のものになっていて、意匠を張り合った様子が伺え、豪商の心意気が感じられる。
土蔵も白漆喰とナマコ壁で構成されたものが多く、町並の景観に寄与していた。
町並指数  60
参考文献
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  下中直也  1988年
古い町並へ戻る