立川町は鳥取市街の東部、旧袋川とその支流天神川に沿う山麓部に展開する。 元禄11年(1698)、因幡国法美郡立川村の一部が、鳥取城下町に編入され、立川一〜三丁目となった。 「因幡志」によれば、元禄年間までは人家もまばらな小村であったが、法美郡と鳥取城下を結ぶ往還筋にあたるため、次第に栄えていったという。 城下町となった立川は、安政6年(1859)の城下町絵地図では、町人町でありながら、武家屋敷が混在した町並であった 安永7年(1778)の家数は、立川一丁目は71、二丁目は110、三丁目は50であった。 明治9年一丁目の家数は84、人数344。二丁目の家数は110、人数427。三丁目の家数は72、人数243であった。 宝暦年間(1751〜64)には立川新町と呼ばれていたが、文化・文政年間(1804〜30)頃になるとただ立川と呼ばれるだけになった。 明治12年には立川村の一部(旧稲吉村地域)が編入され、立川四丁目となった。 現在この一帯に当時を偲ばせる商家は数少なくなったが、それでも数軒の商家が当時の面影を残している。 鳥取市は太平洋戦争中の昭和18年の鳥取大震災、昭和27年の鳥取大火で市街地の大半を失っているが、立川の町並は当時の賑わいの面影を残す町並である。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 1992年 中国地方のまち並み 中国新聞社 中国地方まち並み研究会 平成11年 |
立川町4丁目の町並 |
立川町4丁目の町並 |
立川町4丁目の町並 |
立川町4丁目の町並 |
立川町4丁目の町並 |
立川町4町目の町並 |