智頭町は智頭往来(上方往来・因幡街道)の宿場町で、因幡では最大規模の宿場町として栄えていた。 鳥取藩主の参勤交代のおりの宿泊施設としてお茶屋も置かれていた。今は杉の町として、各家庭の軒先に造り酒屋のように、杉玉を吊るして静かな佇まいを見せている。 江戸時代になって、智頭往来(上方往来・因幡街道)は鳥取藩主の参勤交代の道となり、初代藩主の池田光仲が慶安元年(1648)に初入国以来、12代池田慶徳の文久2年(1862)に至る214年間に、178回この智頭宿を往復している。 このように近世までは、上方への主要道として重要な位置を占めていたが、明治になり智頭往来に代わって、若桜の戸倉越えが主要道となり、大正から昭和にかけて、因美線の開設も加わって、智頭往来の重要性は次第に低下し、静かな佇まいを見せる街道筋となっていった。 江戸時代の智頭宿を知る古地図に、庄屋 粟屋甚三郎が描いた天保14年(1843)の「智頭宿全図」がある。この絵図によると今は無くなっているが、参勤交代の際の宿泊施設である上の御茶屋(御本陣)と下の御茶屋があり、戸数183軒(上町40・下町50・新横町51・河原町42)で、屋号・職種なども記されていて、米屋・塩屋・雑貨屋・豆腐屋・石屋・炭屋・大工・桶屋・酒屋・油屋などが並んでいて、賑やかだった様子がわかる。文久3年(1863)では智頭宿239軒になっている。 天明・寛政期(1781〜1800)の古田家文章によると、毎月1・5・10・15・20・25の6回の市が立っていた。 「智頭宿全図」を見ると、上町坂を中心に約400mの間、往来の真中に用水路が流れていて、馬の飲水・生活用水・防火用水として利用していて宿場らしい様子が伺える。 古い町並みは、智頭往来に沿って、大型民家の諏訪酒造、米原家、マルテ醤油、石谷家、伊藤家と点在する。また、備前街道との分岐点に立つ道標は今でも健在である。その他、大型の商家でないが古い町並みは、備前街道沿いの河原町通りにもあり、特に河原町4丁目あたりは静かな佇まいを見せる町並みが旧街道に沿って展開していた。 その他に、新町通りには平野家・高木家などの古い商家が、横町通りには旧塩屋出店をはじめとした商家が軒を連ねている。 智頭杉に代表される全国的に有名な林業の町で、杉の霊を祀った珍しい杉神社がある。上町・中町・下町辺りでは各家の軒先に杉玉がぶら下っていて、杉の町智頭町をアピールしていた。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 因伯歴史研究協議会 1987年 にっぽん再発見/鳥取県 (株)同朋舎出版 豊島吉則 1997年 智頭往来(パンフレット) 智頭町教育委員会 智頭宿ふるさと史跡案内 智頭町教育委員会 平成13年3月改訂 |
上町坂の石谷家 |
中町の米原家 |
河原町4丁目の町並み |
横町通りの町並 |
下町の町並み |
横町通りの町並み |