倉敷市玉島の町並み 
新町通り・常盤町・矢出町・仲買町・西町
地図


新町筋の町並み
突き当たりに見えるのは元阿弥陀島の羽黒神社
 江戸時代の玉島港は高梁川と運河で結ばれ、北国の物資を運ぶ北前船も寄港し、備中松山藩の外港として重要な役割を担い多いに栄えた。蔵屋敷が並び、問屋が軒を連ねた。今も重厚な商家の建物が残り、往時の繁栄が偲ばれる。
江戸時代の寛永19年(1642)に、備中松山藩(高梁市)の藩主となった水谷勝隆は万治2年(1659)賀陽郡八田部村の庄屋大森元直を新田普請奉行に登用し、高梁川右岸に玉島新田を造成し、寛文5年(1665)に完成した。その潮止め堤防上及び羽黒山の周辺が整備され、船着場も拡充され、通町・土手町・団平町・中島町・常盤町などの町割りが定められ、常盤町などに商人が集まり出した。
勝隆の子、勝宗は寛文10年(1670)に先の大森元直の普請奉行で、柏島の北方に広がる干潟の海を干拓、阿賀崎新田を開発し阿賀崎村を誕生させている。この干拓にあたり、阿弥陀山(羽黒山)の西麓から柏島の住吉山にかけて潮止堤防が築かれた。長さ391m・巾53mの大堤防を築き、この土手に問屋が誘致され、南側の入江が絶好の港になり、千石船が入港できるように船着場も整備した。これが新町である。
新田は水を必要とするため、用水路が開削された。水は高梁川から引いたが、この水路を運河として利用したのが「高瀬通し」である。玉島から高梁川の「一の口水門」までを拡張、整備した。完成は延宝2年(1674)頃である。この高瀬通しは長さ9.1km・巾3.7mから8.5mで下りは竿を使い、上りは引き子が綱で船を引っ張った。
この高瀬通しの開通で、高梁川を下ってきた荷物が、以前のように河口まで下り、乙島の南を廻って玉島港に入るのにくらべ、距離が大幅に短縮され、時間が節約できた。これにより玉島は備中松山藩の産物の積出、入荷にあたる港としての機能を一層強め、備中の玄関口として発展した。
元禄年間(1688〜1703)にはほぼ問屋街も完成し、港の機能も充実し、港町の骨格ができあがった。問屋は松山(高梁)や川辺(真備町)、総社などの水谷氏の領内各地から集まった。最盛期、新町の問屋は東綿屋・大国屋・西綿屋・米屋・西国屋・関屋など43軒を数えた。
港を出入りした商品には、高瀬船から積み降される米・茶・薪などに加え、後背地の新田で栽培された綿やその肥料となる干鰯などがあった。玉島の繁栄は綿によってもたらされたといえよう。その綿は新田で栽培され備中綿といわれた。こんな玉島港は、元禄時代が最盛期でその後は次第に衰弱していった。
それは港に土砂が 流入して、大型船の寄港が難しくなった。特に寛政(1789〜1801)以降は船の出入が難しくなり、また、藤戸・天城辺りの新興繰綿問屋に圧倒されるなどで、玉島港に千石船の帆柱が林立することはなくなった。
今、伝統的な商家の町並みは、新町筋・仲買町・矢出町・常盤町に残っていて、その中でも新町筋には、大店の重厚な伝統的建物の商家が多く残っている。切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が軒を連ねる。家の佇まいが、道路の南側と北側では違う。これは町の起源に由来する。問屋が誘致されたとき、北側に住宅と店舗、港に接した南側に蔵をたてて、荷物を直接蔵へ入れた。それ以来の名残である。
新町筋のなかほどに「向三宅邸」と木札を上げた商家がある。その説明によるとこの家は天保3年(1832)に米屋の分家として建てられた。それまでは南の海側には民家は全くなく、200棟を超える土蔵が軒を連ねていたという。主屋は切り妻造り平入り、中二階建て本瓦葺、虫籠窓があり、中二階正面は黒漆喰塗りで下部はナマコ壁になっていた。格子、出格子、格子戸が備わり新町通りより少し奥まって建っている。
また、土蔵を利用した酒の資料館「玉美人記念館」もある。これらは全部南側にある。江戸時代には新町問屋街の東西には総門があり、夜は門を閉じて夜警が廻り町を警護していたそうだ。
町並み指数 50
参考文献    
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富坂 晃  1999年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名編纂委員会  1989年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年    

新町筋の商家

新町筋の町並み
(奥に見えるのは元柏島の住吉山)

新町筋の造り酒屋の記念館と町並み

新町筋の商家

新町筋の町並み

矢出町の町並み
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