建部町の町並み 
中田
地図


旧中田新町(建部新町)の町並
  岡山県の中央部に建部町の旧建部新町は位置する。岡山城下町と津山城下町を結ぶ津山往来のちょうど中間で、備前岡山と美作津山の国堺にあり、備前岡山藩に属し交通の要衝であった。津山往来で旭川の渡しはここより3kmほど北の福渡。福渡は昔、深渡と呼ばれていて、美作側の福渡は宿場町で船番所が置かれ、備前側の建部には北に備える岡山池田藩の陣屋があった。
戦国時代の終わり、建部新町のある備前の国の国主は宇喜多秀家であったが、関ガ原の戦いでは西軍に属して敗戦。その後に小早川秀秋が入封するも短期間で断絶。つづいて慶長8年(1603)岡山藩主に池田忠継・津山藩主に森忠政が入封。
池田忠継は寛永9年(1632)鳥取藩主池田光政と国替えあり、池田家が幕末まで岡山藩主を勤める。
岡山に入った池田光政は、隣国の美作との国境警備の目的で、慶安3年(1650)一族の池田(森寺)長政に陣屋を造らせ国境の守りとした。長政は旭川西岸の川から多少離れた中田地内の水田の中に陣屋をもうけ、東側門前に20数戸の侍屋敷、更にその東の旭川の自然堤防上を通る津山往来の両側に建部新町をつくり、下ノ横丁・下ノ町・上ノ町・上ノ横丁と区画して約60軒の町家を造り商人、職人などを住まわせ、高瀬川の川湊と対岸の吉田村への渡船場を設けるなど、政治・経済の中心地とした。
享保6年(1721)の「備陽記」によると、新町の属していた中田村の家数94軒・人数505人で他に町分の家数83・人数411であった。
「吉備温故秘録」によると、建部新町に老臣池田氏が居住し、その諸氏の者も居住して町並が形成され商家があると記している。
陣屋や新町は中田村に属していたが、村役人は本村とは別に任命されており、また年貢(地子)の課せられない町として優遇されていた。しかし、時代が降るにつれて主の池田氏は殆ど岡山城下町で暮らし、家臣もだんだんと岡山住まいが多くなり、明治維新になって陣屋の廃止に伴い武士は離散した。陣屋・侍屋敷は取り壊されて元の水田となり、町家の方も町の中を南北に貫通していた津山往来が旭川東側に付け替えられて国道となった。
また、昭和40年代終わりから昭和50年代初頭にかけての、旭川河川改修事業に伴い、旧津山往来の道路東半分の民家立ち退きにより昔の面影は大きく変容し、いまでは津山往来の上ノ町に、町並みらしき建物5軒が明治期の姿をたもっているに過ぎなくなってしまった。
これらの建物は、江戸から明治にかけての建物と思われる、中二階、虫籠窓の典型的な町家が5軒並ぶ。一番南は特に広壮な構えの民家だ。昔は醸造業を営んでいたとか。主屋は二階建て入母屋造り、本瓦葺き平入り、白漆喰壁、出格子、虫籠窓、二階白漆喰の下部はナマコ壁、、一階は出格子で腰までは板張り、格子戸であった。主屋の左側には庭に直接入れる大きな門が構えられていた。道の東側にも人家はあるが、こちらは裏の河川工事のため古い家は残っていない。
町並み指数 50
参考文献      
   岡山町並み紀行  山陽新聞社  山陽新聞出版局  1999年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
   その他 建部町教育委員会文化振興室長 神原英朗さまより資料提供を受けたの
   を参考にする。
古い町並へ戻る