高梁市の町並み 
下町・本町・新町・石火矢町・片原町・南町
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下町の町並み
  高梁(タカハシ)市は岡山県の中央部西寄りに位置する。
松山城は備中制覇のための拠点として重視され、幾多の興亡を繰り返してきたが、中でも戦国時代末期、毛利と織田の勢力衝突地点として、毛利八万余騎とする軍勢に、織田方に通じた松山城は天正3年(1575)落城し、城主三村元親は自刃した。
関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)から幕府領、元和3年(1617)から松山藩領、元禄6年(1693)から幕府領、元禄8年(1695)から松山藩領。
慶長5年(1600)から幕府領となり、備中国奉行小堀政一(遠州)が当地に入り、松山城の修築や城下町の整備が行われた。松山城は山城で通常領主が政務を行うのはために山麓に御根小屋があり、そこで代々領主が政務を行った。
元和3年(1617)松山藩主として池田長幸が6万石で、寛永19年(1642)水谷勝隆が5万石を領して松山に入城したが、元禄6年(1693)跡継ぎがなく断絶した。
以後領主は安藤氏2代、石川氏一代、そして延享元年(1744)板倉氏が5万石で入封し、以後廃藩置県までこの地を領した。
現在の城郭は天和3年(1683)、時の城主水谷勝宗が修復したもの。天守閣は昭和15年にも修築された山城で、現存する山城としては日本一高い場所にあることで有名だ。
寛永19年(1642)から元禄6年(1693)に水谷家三代によって松山城の修復、新田開発、高梁川の川開き、社寺の建立や寄進、城下町の整備などに功績を残した。
水谷氏に跡継ぎがないため断絶になり、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が在番を命じられたことにより、元禄6年(1693)城代となった家老大石良雄をはじめ、不破数右衛門・武林唯七など後の赤穂義士で有名な人々が一時在城したこともある。
主な交通機関は、高梁川を上下する高瀬舟で、高梁は産物集散の要地でもあった。旅人たちも多く集まり商家も賑わった。
伝統的な商家や町家が軒を並べる本町、下町、鍛冶町などにその名残が見られるし、河岸の土蔵にも当時の繁栄がうかがえる。町の通りは遠目遮断になっていて、辻々で少しずらせたり、T字型や曲折させて城下のようすを見通せないようにしてある。
御根小屋跡が内山下の現県立高梁高校にあり、松山城主の日常居館として、また領内を治める政庁として設置され、事実上本丸としての機能を果たしていた。その廻りに武家屋敷があった。今でも高下川沿いと石火矢町に武家屋敷の土塀が続く。
観光駐車場の横に大きな商家がある。下町の商店街筋に主屋があり、入り母屋造り、中二階建て、平入り、桟瓦葺、格子、二階は黒壁の虫籠窓の重厚な商家であり、紺屋町筋から国道180号線に面して長々と白壁のナマコ壁の土蔵が連なる。このような土蔵群は紺屋川と高下川の間の国道180号線(高梁川)沿いに多く見られる。高梁川を利用した高瀬船での物資集散地だったからだ。
本町の伝統的な町並みの商家は、江戸時代から明治初期にかけて建築された商家である。切り妻造り、二階建て、平入り、白壁、桟瓦葺、千本格子の重厚な商家が連なる。池上家(商家資料館)は享保年間(1716〜36)にこの地で小間物屋の「立花屋」を始めた。代々小間物屋を営みながら、高梁川水路の船主、両替商などもして財を築いた。現存する建物は天保の大火災の後、天保14年(1843)に7代目当主によって建てられたものだ。
石火矢町では、道の両側に土塀が続き、格式ある門構えの家並みが見られる。この辺りは100石程度の中級武士の屋敷があったところで、その中に武家屋敷館がある。この建物は天保年間(1830〜44)に建てられた、旧折井家で160石馬廻り役を勤めた武士の屋敷であった。
山の手には頼久寺がある。お城の石垣のような寺院である。禅院式蓬莱庭園は小堀遠州の作で、遠州庭園の傑作中の傑作といわれている。
また、高梁市の南東部に松連寺がある。隣接する泰立寺薬師院と共に城砦を思わせる石垣の立派さは他に類を見ないもので城下町のお寺らしく、まさしく砦である。
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参考文献   
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年 

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鍛冶町の民家

鍛冶町の町並み  

石火矢町の町並み 

本町の商家資料館(池上家)

紺屋川美観地区のキリスト教高梁教会

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