高梁市川上町高山市は岡山県の西部で、標高600m程度の吉備高原上に位置する。井原市芳井町東三原と接していて、この山上の小さな集落内で両市の境界が複雑に入り組んでいる。 備中笠岡と備後東城を結ぶ往来のほぼ中間点に位置し、南北の物資輸送の中継地として開け、その中心集落は往来筋に沿って街村を形成していた。その街村は川上町高山市と芳井町東三原に展開しているが、一つの集落内を無理やり複雑に境界を造ったという感じである。 また、穴門山神社が北方に鎮座し、その門前町としても繁栄していた。 江戸時代、高山市村は初め幕府領であったが、元禄6年(1693)から旗本水谷氏領のまま明治を向かえる。東三原村は初め成羽藩領、次いで幕府領、元禄10年(1697)西江原藩領、宝永3年(1706)幕府領、文政10年(1827)から一橋家領となり明治を向かえる。 市場集落として重要な機能を果たし、東城方面からは米・炭・麦・煙草・大豆・和紙・コンニャクなど、笠岡方面からは塩・魚類・海産物・呉服・日用品などが運ばれ三斎市(5・15・25)が盛大に行われた。 また、穴門山神社の門前町としての性格も併せ持ち、祭礼日(2月・6月・10月の已の日)の市は特に賑わった。江戸末期には牛市が有名になり高山牛として名声を博した。 穴門山神社の門前町として賑わったとあるが、神社らしいものはない。上市で分岐する道の両側に石柱が立っているだけである。地元の方は有名な神社だから是非参拝すればと勧めてくれる。聞けばこの道の先を2km程下っていくと社殿があるという。一般に門前町の近くの高台に神社があるのが多いが、ここでは谷筋の山道を下がって行くと社殿があるようですが、訪ねることはしませんでした。 また、このような標高600mもの山の上の尾根筋に密集した町並みがあるのも不思議なこと。この小さな集落の中を国(藩)の境界線が複雑な形状で、昔から通っているのも不思議なこと。 明治16年の商業旧慣ニ寄道傍使用願書によると、幅四間余りの往来の両側に軒を連ねた家々は「半バ煮物売屋・旅籠屋で、半ば諸産物仲買を業とし活計を立つる旧慣」とあるように、コンニャクや豆腐の煮物売屋や各種の問屋が建ち並んでいたのだろう。 訪ねた町並みは赤瓦が交った町並みだった。昭和10年の大火で下市の36軒93棟が焼失し、長年続いた市も幕を閉じてしまった。火事のせいより、時代の推移の中で商業の中心地としての機能を失ったせいだろう。往来の要衝でなくなり、交通の不便さ、神社への参詣客の減少が後押ししたようだ。 上市は焼けなかったことにより、家が密集して建ち並んでいて、商売繁盛の恵比寿さまの祠が道端に鎮座している。下市は家の建ち方が疎らになっていて、恵比寿さまは道路拡張のため畑の中に移されたそうだ。 今は50軒ほどしかない集落内に立派な郵便局やJAの支所もあるし医院もある。昔からの引き継ぎでしょうが、お店が一軒でも在ったなあと想い出せない集落だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991 岡山町並み紀行 山陽新聞社 宮阪 晃 1999年 |
井原市芳井町東三原の町並み |
井原市芳井町東三原(左側)の町並み |
川上町高山市の町並み |
川上町高山市の町並み |
川上町高山市の町並み |
川上町高山市の町並み |
川上町高山市の町並み |
川上町高山市の町並み |